「おいお前、ジーコって知っているか?」
 里内は住友金属サッカー部のマネージャーだった平野勝哉から声を掛けられた。
「知っているも何も……」
 里内が口ごもったのも無理はない。ジーコが来日する前年の1990年、南米選抜対欧州選抜のチャリティーマッチが国立競技場で行われた。里内は住友金属にいたブラジル人のミルトン・クルスと一緒に見に行き、試合後にロッカールームへ入ることが出来た。試合に出場していた元ブラジル代表のソクラテスと記念撮影していると、目の前をジーコが横切った。「おっ、ジーコだ」。里内は心の中で呟いた。ジーコこと、アルトゥール・アントゥネス・コインブラは彼にとって憧れの選手だった。
(写真:ジーコとオスカーがいた82年W杯ブラジル代表の寄せ書き。オスカーが経営するホテル『オスカー・イン』に飾られいる)
「なんでジーコって呼ばれているんだ? 本名はあるのにどうしてあだ名なんだ?」
「そんなん知りませんよ。何でですか?」
「社長に説明しないといけないんだよ」
 平野は住友金属の社長に会ってジーコ獲得の了承をもらうことになっているという。しかし、里内は自分のいるクラブにジーコが本当に来るとは思えなかった。

 それからしばらくして、ジーコが住友金属に加入することが発表された。新聞に掲載されてもまだ、あのジーコが本当にこの田舎町に来るのか――、里内は半信半疑だった。 
 ジーコが日本に到着したのは、91年5月20日のことだった。彼は成田空港から鹿島へタクシーで移動し、駅前のホテルで待機していた。車を持っていた里内は平野から「ジーコを案内してくれ」と頼まれた。そこで同僚の野見山篤と日本語を話せるジョナスというブラジル人を連れてホテルに向かうことになった。ホテルにいたのは本物のジーコだった。

「こんにちは」
 里内が声を掛けると、ジーコは「Todo bem(こんにちは)」と俯き気味に返してきた。ブラジル人といえば、サンバなど明るくて陽気な性格というイメージを抱いていた。しかし、目の前のジーコは物静かで禁欲的な印象があった。

 まずは国道124号線を走って鹿島神宮に連れて行くことにした。鹿島神宮は太平洋に面した鹿島灘と北浦という湖の間に位置する。ジョナスが車の中から「これが鹿島神宮だ」と指さすとジーコは軽く頷いた。その後、製鉄所の中にある練習グラウンドに向かった。
 練習グラウンドを見たジーコは「Bom(いいね)、Bom、Bom」と言った。里内は「“Bom”ではないだろう」と思っていた。
 というのも、資材置き場の横にある練習グラウンドは、海からの強風にさらされ、製鉄所の粉塵が舞うこともあった。
 芝生のグラウンドは会社に頼んで作って貰った。だが、ある日、グラウンドに行くと、ぷっくりと芝生の一部分が膨らんでいた。昨日までは平らだったのに、と皆が首を捻った。雨が降ると、膨らみは元に戻った。しかし、後日にはまた別の場所が膨らんでいた。まるで怪奇現象だった。

 原因はすぐに分かった。一般的に芝生を植える場合は、水はけを良くするために砂利を敷き、その上に土を盛る。だが、住友金属の練習グラウンドは、砂利の代わりにスラグを使用していた。スラグとは鉄を作る際、溶鉱炉にできる?鉱さい?を冷却し砕いたものである。道路の路盤材や鉄道の道床材に使用されている。製鉄所ではスラグが豊富にあり、工場内の緑地の地盤にも利用していた。

 できたばかりのスラグは内部にガスを含んでいる。そのガスが芝を押し上げていたのだ。ガスの発生は不定期に起こり、グラウンドのあちこちに凹凸ができた。練習中に選手が凹凸に引っかかって、突然転んだりすることもあった
 その他、会社が作ってくれたミニゲーム用のゴールも世界に2つとないものだったろう。それは製鉄所らしく太い鉄棒を溶接したものだった。非常に重く「台風が来ても倒れへんで」と里内たちは軽口を叩いたものだった。

 ジーコが来日して間もなく、静岡で日本リーグに所属していたヤマハ(現磐田)、ホンダ、古川電工(現千葉)、日本鋼管の5チームが集まって練習試合中心の合宿を行ったことがあった。試合前日、里内は昼食会場となっていたホテルの食堂に行くとジーコが声を荒げているのが聞こえた。
「これは何だ?」
「うどんです」
「これはサッカー選手の食事じゃないよ」
「うどんって、何て説明すればいいかな……日本のパスタのようなものです」
 通訳が必死でうどんの説明を始めると、ジーコは「そんなことは分かっている!」と真っ赤な顔で遮った。
「試合の前日にこんな軽いものじゃ駄目だろ。チキンだよ、チキン。チキンとパスタを用意してくれ」
 周囲の人間はジーコの意図が分からず、顔を見合わせていた。サッカーに限らず、当時の日本スポーツ界では食事管理の意識が低かったのだ。その後、ジーコの意見を取り入れ、住友金属は食事を見直すことになる。
(写真:住友金属時代の集合写真。最前列左がジーコ)

 翌日の練習試合は、ジーコが来るというのでグラウンドの周囲には沢山の観客が集まっていた。3000〜4000人は集まっていただろうか。「さすがサッカーの盛んな静岡だ」と里内は思った。
 当初、ジーコは第1試合に出る予定はなかった。ところが住友金属が劣勢になっているのを見ると、負けず嫌いの彼ははいてもたってもいられなくなったのだろう、里内の方をちらりと見てベンチから立ちあがった。

 この頃、里内はチームでフィジカルコーチを任されるようになっていた。当時は日本でフィジカルコーチという役割がまだ珍しかった時代である。デッドマール・クラマーの指導を受けた後、さらにサッカーを学びたいという欲求が強くなっていた。そこで古河電工のコーチだった岡田武史が呼びかけた勉強会に参加した。これは運動生理学、スポーツ医学など、科学的データを使ってサッカーを学ぶ集まりだった。勉強会には、西野朗、池田誠剛などが参加し、日産自動車(現横浜FM)からは下條佳明が参加していた。里内は下條に「日産自動車サッカー部の練習を見学させてほしい」と頼み込んだ。里内の目当てはマフェイというブラジル人フィジカルコーチだった。日産監督のオスカーがマフェイを呼び寄せていたのだ。

 オスカーはブラジル代表のセンターバックとして、ジーコと共にワールドカップ出場経験がある。87年から日産自動車でプレーし、89年に引退後は同チームの監督となっていた。
 普段のマフェイは穏やかな印象の男だったが、トレーニングは厳しかった。単にフィジカルを鍛え上げるだけでなく、戦術練習に生かす身体作りを考えていた。サッカー選手の身体は強くなければならないが、重くて動けなければ意味がない。彼のトレーニングメニューは負荷を細かく調節して、サッカーという競技の特性を考慮していた。また、選手のモチベーションを上げるのも巧みだった。「これがフィジカルコーチか」。里内はマフェイの言葉を細かくメモした。

 里内はマフェイの指導をもとに、自分なりのメニューを作り上げていた。ただ、世界的選手であるジーコに自分のメニューを与えるのは気が引けた。しかし、ジーコは何も言わず黙って里内のメニューをこなした。

話を静岡での合同合宿に戻そう。ベンチから立ちあがったジーコは里内と一緒にウォーミングアップを始めた。
「後半から出るので監督に伝えてくれ」
 とジーコは言った。
――ジーコが出る。
 彼が準備している姿を見て観客席がざわつき始めた。ジーコは後半からピッチに入ると、いきなり直接フリーキックを決めた。里内は思わず「おー」と大声を出した。
「やっぱりこの人はすごいな」
 ジーコは本物のサッカー選手だった。里内は「それに引き比べて自分はどうだろう。まだまだ学ばなければならない」と彼を眩しい思いで見ていた。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に勤務。2000年より退社して、文筆業に入る。『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『W杯に群がる男達−巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)など著書多数。最新刊は、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社 2011年12月2日発売)。早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 招聘研究員。携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。
◎バックナンバーはこちらから