レスリングが五輪から除外されるというニュースには驚かされた。なにしろ、第1回大会から行われてきた伝統の競技が大会から消えるのである。不利を予想された競技のロビー活動が効いたという声もあるが、投票をしたIOCの委員にとっても予想外の結果だったのではないか。当然、レスリング側からは死に物狂いの巻き返し工作がなされるはずで、問題の完全決着はまだ先の話になるだろう。
 いささかガッカリさせられたのは、日本におけるこの問題の取り上げられ方だった。重要視されたのはあくまでも「日本がメダルを量産してきた競技だったから」。レスリングがメダルと無縁の競技であれば、あるいは除外候補にあがっていた、日本とは縁の薄い他の4競技のどれかが選ばれていれば、こんなにも話題にあがることもなかった。レスリングがなくなれば日本のメダルが減る。だから反対……呆(あき)れるほど稚拙で独りよがりな理屈ではないか。

 ただ、今回IOCが下した結論は、子供っぽい日本の反応が愛らしく感じられてしまうほどに醜悪だ。伝統あるレスリングでさえ、姑息(こそく)なロビー活動なくしては五輪から排除されてしまうという前例が生まれることで、今後、サッカーなどごく一部の競技を除くその他のスポーツは、全面的にIOCにひれ伏すことになるだろう。

 五輪の創設者であるクーベルタン男爵は「五輪は参加することに意義がある」という信条で知られているが、その末裔(まつえい)たちがなそうとしているのは、さしずめ「五輪は参加することに素晴らしく意義があるので、そう簡単には参加させん」といったところか。いまは世界最大のスポーツの祭典として我が世の春を謳歌(おうか)している五輪だが、こうした事件が続いていけば、五輪に頼らない運営を考える競技団体も増えてくる。長くサッカーがそうであったように、「五輪は参加しなくてもいい大会」と化していくかもしれない。

 いまでは世界中で知らない人がいない競技となった柔道もバレーボールも、飛躍のきっかけとなったのは東京五輪での正式種目化だった。ソウル五輪がなければ、日本人におけるテコンドーの認知度は極端に低いままだったのではないか。五輪は、様々なスポーツを世界の隅々にまで広める役割をも担ってきた。今回IOCがやろうとしているのはその正反対である。

 1世紀以上も前から、レスリングの世界では五輪が最高の舞台であるとされてきた。その舞台が、レスリングとは無関係な第三者の決断によって失われようとしている。日本の高校野球から甲子園が奪われるに等しい暴挙である。もし五輪から姿を消す競技があるとしたら、それは、当事者たちが五輪を必要としなくなった時だけであるべきだ、とわたしは思う。

<この原稿は13年2月14日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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