NPO法人STANDが配信している「モバチュウ」では、2010年から毎年11月に行なわれている全日本視覚障害者柔道選手権大会を生中継しています。初めて中継をした10年、私はある選手と出会いました。その選手は、会場のあちこちでひと際大きな声を出しており、会場に入った時から、私は気になって気になって仕方ありませんでした。タイミングよく、さまざまな選手を鼓舞する姿から発せられるエネルギーが、会場全体を活気づけているように感じられたのです。それは、まるで火山から噴き出るマグマのように、燃えたぎっていたのです。それが、今回紹介する初瀬勇輔さん。北京パラリンピック視覚障害者柔道90キロ代表選手です。
 “絶望”を“希望”にかえた柔道

 初瀬さんが視覚に障害をもったのは、大学受験に失敗した、浪人中のことでした。緑内障を患い、右目がほとんど見えなくなってしまったのです。それは、まさに突然の出来事でした。それまで普通に見えていたのに、どんどん視界が狭くなっていったのです。翌年に右目の手術をし、そして翌々年、3浪した末にようやく大学入学を果たしました。ところが、大学2年の時に左目の視力もほとんど失ってしまったのです。

 ちょうどその頃、前年に行なわれたアテネパラリンピックの映像をテレビで観た初瀬さんは、視覚障害者柔道の存在を知りました。彼は、もともと中学、高校と柔道をしていました。高校2年時には長崎県大会で3位に入り、3年時には県の強化選手にも選ばれたほどの実力の持ち主でした。当時は藁をもつかむ気持ちで、柔道を再び始めたのです。しばらく畳から離れていたとはいえ、彼の実力が発揮されるのにそう時間はかかりませんでした。初めての実戦となった、全日本視覚障害者柔道大会では90キロ級で見事優勝し、翌年にフランスで行なわれたIBSA柔道世界選手権の代表選手となったのです。

 それが初瀬さんの転機となりました。ちょうどその年は、20回記念大会ということで、会場には皇太子さまが来られており、優勝者は皇太子さまとお話することができたのです。この時、初瀬さんはあまりの緊張に、皇太子さまとどんな言葉を交わしたのか、まったく記憶にありません。しかし、自分の心が晴れやかになっていったことだけは、はっきりと覚えていると言います。

「これまでは自分はただの視覚障害の大学生だと思っていました。ところが、皇太子さまとお話をすることができた。その時に『あぁ、自分は本当に日本の代表になったんだなぁ』と実感したんです。『こんな自分でも生きていく場所があるんだ』と“絶望”が“希望”に変わっていくのが自分でもはっきりとわかりました。僕の新しい人生がスタートしているんだ、と思ったんです」

 その後、希望していた障害者就労をサポートする会社に就職も果たした初瀬さんが初めてパラリンピックに出場したのは、視覚障害者柔道を始めて3年後の08年。07年10月の全日本選手権大会で優勝し、同年12月に日本代表に内定したのです。すると、この時から会社からの全面的なバックアップが始まりました。遠征費やトレーニングなどにかかる費用の負担や就業時間の短縮など、パラリンピックに向けた環境を整えてくれたのです。

「パラリンピックに関心を示さない企業がたくさんある中、僕の会社では社内報でも紹介してくれたりして、会社が気持ちよく送り出してくれました。本当に嬉しかったですね。もちろん、金銭面や環境面での支援もありがたかったのですが、何よりも精神的な支えが一番大きかったです。『僕にはこんなにたくさん応援してくれる人がいるんだ』と思えたことが、自信になりました」

 “アスリート”と“起業家”の両立

 一方、仕事はというと、初瀬さんは障害者の就労支援や、自分の会社に就労している障害者の社内でのとりまとめ役を行なっていました。自分がやりたいと思っていたことができ、しかも選手としても応援してもらえている環境に初瀬さんはこのうえない幸せを感じ、そして会社にも感謝の気持ちでいっぱいでした。しかし、実は彼には学生の頃から「いつかは自分で起業したい」という思いがありました。それが働いているうちに、さらに大きくなっていったのです。それは初瀬さん自身が会社を通して社会を知るという貴重な経験をし、それが自分にとって大きな財産となっていると感じたからなのです。それをもっと多くの障害者に経験してもらいたい。そのために、多くの機会を得られる大海原へと出て行こうと考えました。会社員としても選手としても安住だった地を離れて、初瀬さんが起業しようとしたのは、障害者の未来を変えたかったからなのです。

 また、東日本大震災が起こったのは、ちょうどその頃でした。想像を絶する大きな被害に、初瀬さんも非常に心を痛めたと言います。そして、自分の命についても考えたそうです。人生とはいつ、何が起きるかわかりません。だからこそ「何かやりたいことがあるのなら、躊躇せずに、行動しなければ」という結論に達した初瀬さんは、早速動きました。11年10月、会社を退職し、2カ月後には障害者の就労をサポートする会社「ユニバーサルスタイル」を設立したのです。

 最近アスリートの「デュアルキャリア」について、議論が深まっています。現役を引退後、仕事に就く「セカンドキャリア」に対して、文字通り「二本立てのキャリア」という意味で、現役時代から引退後を見据えて同時進行で準備をしようという考え方です。初瀬さんが始めているのは、“アスリート”と“起業家”の二本立て。しかも現役時代から準備するのではなく、すでに新たに仕事を始めています。それも自らの手でビジネスを起こしている、のです。まさに“前人未到”の「デュアルキャリア」と言えるでしょう。
(photo/ Shugo Takemi)

 実は、08年北京パラリンピック出場後、ロンドンパラリンピックでは初瀬さんの専門階級である男子90キロが除外され、やむなく体重を落として81キロで代表選考会を兼ねて行なわれた全日本選手権に出場し、2大会連続出場を目指しました。しかし、残念ながら代表から落選。しかし、彼はまだまだ諦めてはいません。現在は16年リオデジャネイロパラリンピックを目指しており、東京で開催される可能性もある20年大会の出場も視野に入れているのです。選手として、そして起業家として、初瀬さんがどのように新たな道を切り拓いていくのか、大いに期待しながら、注目していきたいと思っています。

伊藤数子(いとう・かずこ)プロフィール>
新潟県出身。障害者スポーツをスポーツとして捉えるサイト「挑戦者たち」編集長。NPO法人STAND代表理事。1991年に車いす陸上を観戦したことがきっかけとなり、障害者スポーツに携わるようになる。現在は国や地域、年齢、性別、障害、職業の区別なく、誰もが皆明るく豊かに暮らす社会を実現するための「ユニバーサルコミュニケーション活動」を行なっている。その一環として障害者スポーツ事業を展開。コミュニティサイト「アスリート・ビレッジ」やインターネットライブ中継「モバチュウ」を運営している。2010年3月より障害者スポーツサイト「挑戦者たち」を開設。障害者スポーツのスポーツとしての魅力を伝えることを目指している。著書には『ようこそ! 障害者スポーツへ〜パラリンピックを目指すアスリートたち〜』(廣済堂出版)がある。