世界各国、代表選手選考には「どうしてこの選手を選ばないのか」と、必ず不平不満が出るものである。中でも、世界トップクラスのチームが幾つも作ることができるであろう、ブラジルはその傾向が強い。
(写真:テレ・サンターナが監督だったセレソンの中心選手、ソクラテス)
 ブラジル人は酒を飲みながらサッカーの話をすることが大好きである。「どの時代の代表が最強か」というのは、その中でよくある話題だ。
――お前はどの代表が一番いい代表だと思う? 
 年配のブラジル人はそう尋ねた後、だいたいこう付け加える。
「もちろん1970年の代表は除いてね」

 ブラジルで最も評価の高いのは、ペレ、トスタン、リベリーノがいた70年W杯の代表である。それ以外で人気があるのは、82年W杯の代表である。ジーコ、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾ――クワトロ・オーメン・ジ・オウロ(黄金の中盤)を揃え、大会前から優勝候補と目されていたが、パオロ・ロッシのいたイタリアに敗れてしまった。

「自国のサッカーが世界一だ」という強い誇りを持つブラジル人が、優勝できなかったチームを好むことは異例である。それだけ、テレ・サンターナ監督の率いる代表は、公平に選抜され、サッカーが魅力的だったということだ。

 それまでブラジル代表は地域ごとの縄張り意識が強かった。サンパウロ出身の監督が就任すれば、サンパウロ周辺の選手。リオ・デジャネイロ出身の監督ならばリオ周辺の選手を優先して選んでいた。テレの代表は、リオのジーコ、サンパウロのソクラテス、中部ミナス・ジェライス州出身のセレーゾ、南部ヒオ・グランジ・ド・スール州出身のファルカンと、1つの地域にとらわれなかった。

 そして何より、ブラジル人の愛してやまないスタイル、“Jogo bonito”(ジョーゴ・ボニート)、“futebol arte”(フットボウ・アルチ)を追求した。それぞれ「美しいゲーム」「芸術サッカー」の意味である。テレは攻撃的で華麗にパスを繋ぐサッカーの信奉者だった。

 里内猛はジーコの手引きで93年2月から2カ月間、テレが監督を務めるサンパウロFCで研修を受けることになった。同行したのは、選手の長谷川祥之と吉田康弘である。
 テレの率いるサンパウロFCは、全盛期を迎えていた。前年の92年にリベルタドーレス杯を初制覇(93年も連覇することになる)し、チームにはライー、ミューレル、ロナウダン(後に清水エスパルス)、カフーというブラジル代表の中心選手が所属していた。

 サンパウロFCは、88年にブラジルのクラブとしては初めて近代的なトレーニングセンターを市内のバハフンダに建設している。トレーニングセンターは3つの芝生のピッチ、ミニサッカー場、ゴールキーパー専用練習場などを備えていた。

 テレの部屋はクラブハウスの2階、3つのピッチを見渡せるところにある。午前中、トレーニングセンターに現れると、まずピッチを歩いて芝生の長さを確認した。そして、次の試合会場に合わせて、芝生の長さを調節した。例えば、バスコ・ダ・ガマの本拠地サンジョノアーリオは芝が長く、足を取られる。ブラジルのスタジアムの芝はそれぞれ癖があるのだ。



 テレの指導について、教えを受けた選手が口を揃えるのは、「基本練習をくり返し行う」ことだった。チーム練習の後も、若手選手の個人練習に付き合い、テレがパスを出して若手のサイドバックの選手がドリブルからクロスボールをひたすらあげるということもあった。
(写真:一番上の列、左がテレ・サンターナの顔写真)

 テレはまるで選手の父親のようだった。 
 試合にフル出場した選手は翌日の練習が免除されていた。ただ、若手に対してはそうとは限らなかった。ある選手は試合にフル出場した際、警告をもらい、1試合の出場停止となった。そのこともあり、彼は翌日の練習に現れなかった。
 
 テレは厳しい顔になり「どうしてあいつは来ていないのだ」とコーチを呼びつけた。練習施設の中にあった選手の寮から慌てて選手が駆けつけた。「お前は一人前の選手になるために、まだまだやるべきことがあるんじゃないか」とテレが話すのが聞こえてきた。

 またある時には、トレーニングセンターの駐車場に見なれない新車が停めてあった。テレが「これは誰の車だ」とすぐに調べさせると若手選手の車だった。テレは、その選手を呼び出した。
「お前は誰のお陰でここまで成長できたと思っているんだ。感謝しなければならない順番が間違っている。まずはお前を育ててくれた両親だろう。すぐに車は処分しろ」

 若い選手はちょっとした成功で、有頂天になる。サンパウロFCのような名門クラブの選手ならば周りからちやほやされる。いい車に乗っていると、自分が成功したと勘違いするようになり、伸びが停まってしまう。サッカー選手にとって大切なのはピッチの中だけではない。“まだまだ満足するには早い”。テレが選手の私生活にまで細かく気を配ることが里内の印象に残った。

 後に里内はイビチャ・オシムと一緒に仕事をした時、テレの顔を思い出した。国籍も指導スタイルも違うが、選手をきめ細かく把握するところはそっくりだった。

 テレはメルセデス・ベンツに乗っていた。チームの選手は遠慮して誰もメルセデスには乗っていなかった。周囲を睥睨するかのように駐車場にゆっくりと入ってくる、白いメルセデスはテレに良く似合っていた。

 2カ月はあっという間に過ぎた。最後の日、里内はテレに挨拶へ行った。テレは、ジーコの人間的な魅力、彼が日本でプレーすることによって生まれる好影響について話してくれた。テレにとってもジーコは特別な選手だったのだ。

 里内がブラジルから帰国後、鹿島アントラーズはイタリア遠征に出かけた。そこで里内はジーコからこっぴどく叱られることになる――。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に勤務。2000年より退社して、文筆業に入る。『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『W杯に群がる男達−巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)など著書多数。最新刊は、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社 2011年12月2日発売)。早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 招聘研究員。携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。
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