21年前、マレーシアの首都クアラルンプールは活気に溢れつつも牧歌的な雰囲気を存分に残した街だった。この街で開催されたバルセロナ五輪アジア最終予選に出場した日本代表は、中国、韓国、カタールに完敗し、6チーム中5位という無残な成績で大会を終えた。
 唯一の勝利となったバーレーン戦を除くと、終始相手に主導権を握られ、耐えて耐えて耐えて、ついに耐えきれずに決勝点を許す……そんな試合ばかりだった。決して多くはなかった日本記者団は、全員がしめし合わせて白いシャツを着用し、記者席から一体感と勝利への思いを伝えようとしたりもしたが、残念ながら何の役にも立たなかった。

 21年後、すべては劇的に変わっていた。

 2020年には先進国になると国が宣言し、不動産価格が年に15%の割合で上昇しているというかつての牧歌的な首都は、「ここは六本木だよ」と言われれば無条件で信じてしまうほどの超近代都市に変貌していた。日本サッカーは、当たり前のように世界大会に出場するようになっていた。そしてわたしは、無数のフラッシュとライト、突き出されるマイクに囲まれた。

 21年ぶりにクアラルンプールを訪れたわたしの立場は、スポーツライターではなく、JFLに所属するFC琉球の関係者、だったからである。

 言うまでもなく、JFLはJ2の下、3部リーグに相当するカテゴリーであり、そのことはマレーシアの人々もよく知っている。ファン、メディアの中には「なぜそんなところに」という声も少なからずあったと聞く。ただ、昨年、試験的にFC琉球の練習に参加したマレーシア五輪代表の選手が「3部とはいえレベルは非常に高かった」とコメントしたことで、マレーシア・サッカー史上初めて、日本でプレーする選手が出現するかもしれないという期待が圧倒的多数になっていたのである。

 「獲得するのは誰?」

 「まだ言えません」

 「何人?」

 「それも言えません」

 「なぜマレーシアの選手を?」

 「五輪予選での戦いぶりに強い印象を受けたからです」

 FAM(マレーシアサッカー協会)のスタッフが止めに入ってくれなかったら、終わるときがこないのではないかと思うほどの熱気だった。そうだった。わたしたちも、日本人選手が欧州へ移籍するかもという噂が流れるたび、クラブ関係者を質問攻めにしたものだった。そして、移籍が正式に決定するたび、日本のファンが、記者が、お金が、海を渡っていったものだった。

 同じことが、マレーシアと日本でも起こりうる。予想はしていたことだが、実際に現地を訪れて、その思いは確信に変わった。

<この原稿は13年3月14日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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