かつて“パグンサ・オルガニサーダ”と呼ばれたチームがあった。直訳すれば「組織化された混乱」。言葉だけを見るとひどく矛盾しているようだが、あのチームはまさに、組織化されているようで、混乱していた。無秩序なようで、理にかなってもいた。だから、素晴らしく美しかった。ジーコやソクラテスを擁した82年のブラジル代表である。
 数年前、亡くなる直前のソクラテスに、途方もない量のワインとビールを飲みながらあのチームについて聞いてみたことがある。

 「個性と熟成」――それが“ドトール”と呼ばれた男の考える、あれほど素晴らしいチームが誕生した理由だった。組織的なチームを作ろうとしたのではなく、各々の理解度が深まっていったことで、結果的にため息が出るような連動性が生まれただけだ、という。

 それぞれ自分のチームでは大黒柱として君臨する選手たちが、同じメンバーでの試合を重ねることで理解度を増していく――ここ数年、日本代表がやっているのはこれとまったく同じやり方である。1年前のいまごろ、だからわたしは、ひょっとしたら日本からも伝説的なチームが生まれるのではないか、という期待を持っていた。

 だが――。

 熟成が進むことによって、ブラジルのタレントたちはどんどんと新しい味を出すようになった。ところが、ほぼ同じメンバーで戦い続けている日本の選手たちは、ごく少数の例外を除くと、どんどんと倦怠期に入りつつあるように見える。今までできたことに新たな何かを上積みしようとするのではなく、なんの知的興奮もないまま、ルーティンをこなしているように見える。

 そろそろ、ターニングポイントなのかもしれない。

 ザッケローニ監督のやり方が新鮮だったからこそ、日本代表は南アフリカでの退屈な戦いが信じられないほど劇的な変化を遂げた。そのことは高く評価したい。だが、熟成に入るべき段階の日本を待っていたのは、予想外の停滞だった。オーストラリアとの差は、1年前よりも明らかに詰まってしまっていた。

 このままでは、W杯での躍進など望むべくもない。ならばどうするべきか。方法は2つある。ザックが今まで見せていなかった一面を見せるか、ザックのやり方に新鮮さを覚える選手をチームに加えるか、である。

 埼玉でのオーストラリアがやってきたのは、全員が一つのやり方を徹底するという、言ってみれば南アフリカで日本がやったのと同種の哲学に則(のっと)ったものだった。つまり、過去の日本に、今の日本は負けかけたのである。それも、ホームで。

 同点弾は確かに劇的だった。地元でのW杯出場決定が初めてだった、というのもあるのだろう。それはわかる。わかるのだが、日本はまだこんなにもW杯出場を決めただけで喜べる国だったのか、という驚きには、いささかの苦さが伴う。

<この原稿は13年6月6日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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