「この選手はセッターとして大学へ送り出さないといけない」
 高知中学・高等学校の高等部バレーボール部監督の大基喜は、中等部から進学してきた山岡祐也を見てこう考えていた。175センチ前後のアタッカーでは大学には受け入れられないだろうという見方が理由だった。しかし、山岡が高校時代に主に起用されたポジションはアタッカー。中学時代同様、チームには柱となるアタッカーがいなかったからだ。「アタッカーとしての彼の器用さとうまさに頼らざるを得ませんでした」。大は当時の複雑な心境をこう明かした。
 “考えるバレー”がもたらした変化

 それでも、指揮官は山岡のセッターへの起用をゼロにはしなかった。チーム戦術のひとつとして2セッターやワンポイントでの起用を模索していたのだ。これは正セッターが負傷した場合の対策にもなると考えられていた。そのため、山岡にはアタッカーとしての練習と並行して、少ない時間ではあったが、足の運び方や姿勢といったセッターとしての基本練習も行わせた。大いわく、山岡は呑み込みが早く「すぐ理解して身に付けていた」という。

 また、大が山岡たちに課していたのが「考えるバレー」だった。練習メニューも浮かび上がった課題をどうすれば克服できるのかを考え、選手たちがつくっていた。山岡は「先生は答えを言わないので、正直、きつかったです」と笑いながら当時を振り返った。それでも、その「考えるバレー」が確実に彼のプレーに変化を与えていた。

「頭を使うようになりましたね。特に自分が相手の立場に立ってみて、やられたら嫌なプレーは何かを考えるようになりました。『今どこにトスを上げられたら嫌なんだろう?』『どのコースに打たれたら嫌なんだろう?』と。頭を使うことで、プレーが中学時代とは全く変わりましたね」
 1年時から中心選手としてチームを牽引した山岡は、高校2年時に出場した地元開催の国民体育大会はフルセットの末に初戦敗退に終わったものの、インターハイには3年連続、全国高等学校バレーボール選抜優勝大会(春高)には2年連続で出場した。

 大には、山岡について強く印象に残っていることがある。山岡が高校3年時に全国私学バレーボール選抜チームの一員として上海に遠征した時のことだ。大が推薦書に書いた山岡のポジションは「セッター」。だが、実際に彼が選抜チームで務めたのはリベロだった。本格的なセッター経験がなく、他校の正セッターがいたことが、その理由だった。しかし、それこそリベロはまったくの未経験。普通に考えれば、活躍することは期待できなかっただろう。ところが、山岡は好プレーを連続したという。
「山岡がリベロでプレーするのは初めてでした。にもかかわらず、サーブレシーブにしても、強打レシーブにしてもしっかりと対応できていたんです。遠征に帯同した先生方から抜群に褒められていたのを覚えています。リベロとしても大学で勝負できるのではないかと可能性を感じました」
 アタック、トス、レシーブ……山岡が非凡なセンスを備えていたことがうかがえるエピソードといえるだろう。

 そんな山岡が次なるステージとして選んだのは、多くの?リーガーならびに日本代表選手を輩出している順天堂大学だった。そこには山岡が「一緒にバレーをやりたい」と熱望する憧れの存在がいた。昨季まで警視庁フォートファイターズでプレーした中田学(現順大バレーボール部アシスタントコーチ)である。

 指揮官が勘違いするほどのセンス

 中田は山岡の2学年上で、愛媛・松山工業高校時代は、チームを全国ベスト8に導いたエースだった。山岡はその活躍を見て、大きな衝撃を受けた。
「化け物がいるなと思いましたね。身長が175センチくらいにも関わらず、どんどんスパイクを決めていました」
同じく小柄だった山岡にとって、全国の猛者相手に活躍する中田の姿は輝いて見えた。
(写真:ⒸF.C.TOKYO)

 2004年4月、山岡は希望通り、中田のいる順大に入学した。そこには中田のみならず、全国の実力者たちが集結していた。4年には近藤茂(現東レ)、3年に中田、2年には佐別當賢治(現サントリー)。そして、同期には石橋健(現JT)、松原広輔(現ジェイテクト)、河雲栄樹(元東レ)らがいた。身長が2メートル前後の選手も各学年に1人はいた。

 そんな順大バレー部において、山岡はセッターではなく、上海遠征で手応えを得たリベロとしてプレーすることを考えていた。しかし、リベロには1学年上の佐別當が不動のレギュラーとして君臨していた。当時の山岡は佐別當の牙城を崩すのは簡単ではないと感じていた。そんな時、マネージャーからかけられた言葉が、山岡の心を動かした。
「佐別當がいる間は試合に出られない可能性が高い。それなら、セッターに転向して、正セッターの近藤が卒業したら2年生から出られるチャンスはあるぞ」
 試合に出られなければ意味がない――山岡がセッター転向を決意するのに時間はかからなかった。

 山岡はセッターとして勝負するため、全体練習後も、ひとりでトスを上げる練習を繰り返した。そんな彼の姿を見ていたのが監督の蔦宗浩二だ。
「1年生なんて練習が終わったらすぐに帰りたいと思うのが普通ですけど、山岡は毎日ひとりでトス上げの練習をしていました。すごいことですよ」

 また山岡にとって絶好のアピールの場となったのが、チーム内で行われたビーチバレー大会だ。動きにくい砂の上で、山岡は切れのあるプレーで見事優勝を勝ち取った。試合を見て蔦宗は「運動能力が高いし、しっかりトスも上げられている」と目を見張ったという。これが蔦宗が山岡を正セッターとして起用する決め手になった。

 だが、いざセッターをやらせてみると、どこかぎこちないプレーをする山岡に対して蔦宗は違和感を覚えた。実は蔦宗は山岡が大学に入るまで本格的なセッター経験がないことを知らなかったのだ。40〜50人にもなる大所帯が故に、指揮官が全員の経歴を把握することは難しかった。ある日、試合後に蔦宗はセッターとしての基本的な原則を山岡に問うた。そこで、ようやくセッターとしてほぼ未経験だということを知った。
「トスの上げ方の原則という、セッターなら誰もが知っているようなことも理解していませんでしたね。よく見てみると、相手のブロッカーも見ていないし……。そこで話を聞いてみたら高校時代はほとんどセッターをやっていなかったと。びっくりしましたよ(笑)。毎日、セッターの練習をしていたので、高校時代もやっていたんだろうなと思っていたんです」
 
 幾多のセッターを育ててきた蔦宗さえも勘違いするほど、山岡にはセッターのセンスがあったということだろう。その証拠に、山岡はその後、努力を惜しまずに練習したこともあって、すぐにセッターとして高いレベルに到達している。

 アタッカーに育てられた才能

 山岡自身はセッターとして試合に出始めた頃を「不安でした」と振り返った。それでも、セッターとしての実力を伸ばせたひとつの要因として、彼は「仲間の存在」を挙げた。
「同期の石橋と松原も2年から試合に出ていましたし、オポジットには中田さんもいました。彼らに上げればなんとかしてくれるし、トスがうまく合わなくても怒らないでいてくれた。その中で自分のトスが得点につながったり、白星が増えたりと結果がついてきたので自信を得ていきました。アタッカーに育てられたと思っています」
(写真:ⒸF.C.TOKYO)

 また、「蔦宗先生が試合に使ってくれなかったら今の僕はない。いくら練習しても使われるかどうかは監督次第ですから」と恩師に感謝を述べた。確かにチームの司令塔役に経験値の少ない選手を置くのはあまりにもリスクが大きい。蔦宗は山岡のどの部分にセッターとしての魅力を感じたのか。ひとつは「人間的な頑丈さ」である。

 山岡が3年の時、リーグ戦で優勝のかかった試合前に、祖父が亡くなったという訃報が彼の元に届いた。日帰りで帰省し、弔事に参列することもできたが、山岡は「リーグが終わってから、後で丁寧にお参りしますから」と言ってチームを離れず、試合に臨んたという。また、試合でブロックに入った際に指を骨折した時、蔦宗が「医者に行ってこい」と言っても「行ってもすぐには治らないからいいです」と答え、ボールが触れる度に激痛が走っていてもおかしくないその手で、最後まで平然とプレーした。そんな類まれなる精神力を持っていた山岡を見て、蔦宗は「この選手になら、全員の人生を託してもいい」と思ったのだ。

 もうひとつは、セッターとしての状況判断力の高さだ。具体的には、蔦宗は「トスの上げどころ」を挙げた。
「セッターは相手のマークや、自分のチームの状況など、すべてを把握したうえでトスをどこに、誰に上げるかを決めます。単調になってもいけないし、チーム内がアンバランスになるような選手に上げてもいけません。いいセッターは、その『上げどころ』のミスがないんです」
 山岡は、「上げどころ」の判断が的確だった。

 また当時の順大のレギュラーはミドルブロッカー石橋の197センチが最高身長で、セッター山岡と両サイドの選手は170センチ台という小さなチームだった。ゆえに、高さのある相手をかわすためには速い攻撃が必要だった。そんなチーム事情にも、山岡のセッターは適任だったと蔦宗は語る。
「山岡のトスワークには鋭さがありました。だからこそ、ケタ外れにスパイクの打点の低い選手たちをうまく操ることができたんです。現在、“高速バレー”という言葉が大学バレー界でも主流になってきていますが、私が見る限り、速いと感じることは少ない。山岡がコントロールするバレーは本当に速かったですからね」

 現在、山岡の特長となっている速いトスは、順大時代に培われたのだ。2年から正セッターとなった山岡は、3年時には東日本インカレのベストセッター賞に輝き、4年時には順大の全日本インカレ3位に貢献。その実力は?リーグのチームも注目するほどまでに成長していた。

(最終回へつづく)

山岡祐也(やまおか・ゆうや)プロフィール>
1985年5月17日、高知県生まれ。高知高―順大―FC東京。小学校1年時にバレーを始める。小学校から高校まではアタッカーとしてプレーし、多くの全国大会を経験。高校2年時にはインターハイでベスト16入りを果たした。順天堂大に進学後、現在のポジションであるセッターに転向。大学3年時の東日本インカレでベストセッター賞を受賞した。大学卒業後、FC東京へ入団。2年目からレギュラーとしてプレー。速いトス回しで攻撃を組み立て、高いレシーブ力で守備での貢献も光る。身長176センチ、体重68キロ。背番号10。



(鈴木友多)
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