いまのようにサッカーの映像が氾濫していなかった時代、わたしの情報源は通信販売で購入するか、欧州に住む知人が送ってきてくれるビデオだった。気に入った試合はそれこそすり切れるほど何度も見返したものだが、その中のひとつに、91年か92年に行われた親善試合、西ドイツ対メキシコの一戦があった。
 当時の西ドイツは圧倒的な強さでW杯イタリア大会を制し、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。一方のメキシコはと言えば、86年にW杯を地元開催したものの、90年は予選で失格処分を命じられた、完全なアウトサイダーである。

 だが、アルゼンチンの智将メノッティに率いられたメキシコは、素晴らしく斬新なサッカーで世界王者に挑みかかった。極端にコンパクトな陣形を敷き、つないで、つないで、つなぎまくる。異様なほどの密集戦に引きずりこまれた世界王者が、W杯アルゼンチン大会で蹂躙した相手から為す術も攻撃を浴びる様に、強烈な印象を受けたことを覚えている。

 以来、監督が誰になっても、メキシコはメキシコであり続けている。

 バルセロナのサッカーが脚光を浴びるようになってからというもの、日本のサッカー界でもボールを保持していることの重要性は誰もが知るところとなった。カテゴリーを問わず、どんなサッカーをやりたいか、と聞かれる選手や監督は、おそらくはメキシコ人の多くがそうであるように、ほとんどが「ポゼッション・サッカー」と答える。

 悪いことではもちろんない。だが、コンフェデ杯でのメキシコがブラジルを相手にしてもボールポゼッションにこだわったのに対し、日本は最初から諦めてしまっていた。日本と戦ったメキシコは劣勢の時間帯でも自分たちのサッカーを貫こうとしたが、日本はあっさりと放棄してしまった。

 ボールポゼッションの重要性を口にしつつ、相手が強い時は違うやり方を取るのも仕方がない、と考える日本人は多い。実際、日本代表選手の中にも南アフリカ的手法への回帰を口にする者がいたという。

 メキシコ人は違う。相手が強い時こそ、自分たちがボールを持つ時間を増やし、相手の攻撃時間を減らそうとする。メキシコ人にとってのボールポゼッションが、絶対に譲れないチームの根幹だとしたら、日本人にとってのそれは、弱い者いじめの手段にすぎないのが現状なのである。

 相手の立場や顔色によって変わってしまう主張は、哲学とは言わない。哲学のないサッカーは、苦境を乗り切ることができない。苦しくなった時、追い詰められた時、日本の選手が頼るべきもの、すがるべきものはなんなのか。

 個人の名前――では論外である。

<この原稿は13年6月27日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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