正直なところ、彼らがどんな意図でああいった行為に出たのかは、まったく理解に苦しむ。
 私が外国人に何かを訴えようとするならば、相手の母国語か、せめて英語で伝えようとする。それとも、ターゲットは自国民だったのか。自分たちはかくも愛国的な集団であると訴えるために、巨大なハングルでの横断幕を作成し、誇示したのか。
 試合2日後、日本の下村文科相は「その国の民度が問われる」と批判したそうだが、あの種の行動に効果的なのは、政治家の批判ではなく市井における失笑である。いまのところ、韓国国内では賛否が分かれているようだが、その中に「あきれ果てた」という空気が生まれてこない限り、「韓国の常識、世界のタブー」はまた繰り返されることだろう。

 タブーと言えば、近年のサッカー界が一貫して取り組んできた問題の一つに人種差別がある。わたし自身、バルセロナでアパートを借りようとしたところ「東洋人だから」という理由で断られたことがあるし、東欧を旅行中、指先で目尻をつり上げた男たちに嘲られたこともある。単なる怒りでは収まらないあの苦さは、人生において味わった最悪のものである。

 アメリカ南部における人種差別を描いた映画「ミシシッピー・バーニング」にこんなシーンがある。人種差別主義者による殺人事件が明らかになる中、町長が自殺する。彼は直接殺人事件に関与していたわけではない。「なぜだ?」と訝しむ捜査官に、ウィレム・デフォー演じるFBI捜査官が言うのだ。

「見て見ぬふりをしてた者には皆、罪がある。我々皆、そうだ」

 サッカー界は、見て見ぬふりをするのを辞めた。この問題に関しては、どんな小さな国の、どんな小さなスタジアムであった問題であっても、絶対に見逃すまいという姿勢を明らかにしている。

 いま、日本に差別はないだろうか。差別を絶対に見逃すまいという姿勢を、サッカー界は見せているだろうか。ヘイトスピーチは許さないという意志を、明らかにしているだろうか。
 スポーツにおいて、政治への関与はタブーだが、人種差別は悪、絶対悪である。対策は2つ、国ぐるみでもみ消すか、根絶を目指すか、しかない。

 折しも、日本はいま五輪の招致を目指している。いずれはW杯招致に向けた動きも始まるだろう。その際、ヘイトスピーチが容認されているという現実は、大きな足かせにもなりかねない。

 スポーツを愛する人間は、自覚する必要がある。
 ごく少数とはいえ、この日本で差別を声高に訴える人たち。彼らは、スポーツの敵でもある。

<この原稿は13年8月1日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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