二宮: 西村さんは宮崎県の出身ですね。当然、焼酎は?
西村: 大好きです。だからこういう企画は嬉しいですね。よろしくお願いします。

 新発見! Soba&Soda

二宮: 夏ということで、まずは「そば雲海 黒麹」のSoba&Sodaを。
西村: あ、これは美味しい! 普段から焼酎を飲むことが多いのですが、ほとんど水割りで飲んでいるんです。焼酎でソーダ割りなんて思いつかなかった。新しい発見です。

二宮: 焼酎を飲むようになったのは、いつ頃ですか?
西村: 社会人に入ってからよく先輩と一緒にお酒を飲むようになったのですが、選手時代はビールが多かったんです。でも、引退して指導者になってから、焼酎をよく飲むようになりました。最近は若い人も焼酎を飲む人が多くなっています。このソーダ割りは、クセがなくてのどごしもさっぱりしているから、若い女性にも人気が出るでしょうね。

二宮: 西村さんは宮崎県でも最南端の串間市出身です。私も取材で行ったことがありますが、宮崎市内からは結構遠いですよね。どちらかというと、鹿児島県に近い。
西村: そうですね。だから地元で飲みに行くといったら、日南市あるいは鹿児島県の志布志市まで行くことが多いですね。

 俊足でまさかのプロ入り

二宮: 串間市は野球が盛んなところなんですか?
西村: いえ、特にそういうわけではないですね。なにせ、町自体が本当に小さいんです。僕が子どもの頃は野球部がある中学校は4つしかありませんでしたし、高校は福島高校ひとつしかなかったんです。

二宮: その福島高から2年生の時には甲子園に出場しました。
西村: 初出場でしたが、その後は一度も出ることができていません。今思うと、よく行ったなぁと思いますよ。特にずば抜けて巧い選手がいたわけではなかったですからね。ただ、ここぞという時のまとまりはすごくありました。先輩も同級生も後輩も、みんな中学時代から一緒にやってきたメンバーばかりでしたから。

二宮: 他の高校からスカウトされたことは?
西村: 実は宮崎市内にある宮崎電子工業高(現・宮崎第一高)からお誘いを受けていたんです。でも、僕としては中学時代にやったメンバーと高校でも一緒にやりたいという気持ちが強かったものですから、地元の福島高を選びました。

二宮: 高校卒業後は鹿児島鉄道管理局に入社しました。都市対抗野球大会には、何度出場されましたか?
西村: 鹿児島鉄道には4年いたのですが、実は1度も都市対抗には出ていないんです。いつも予選の1回戦で負けてばかりいましたから。

二宮: 補強選手での出場は?
西村: 補強でも出ていないんですよ。

二宮: 西村さんくらいの足があれば、補強で呼ばれてもいいはずですよね。都市対抗に出ることなく、ドラフトで指名されるというのは珍しいですね。
西村: そうなんです。ほとんど聞かないですよね。それを言うと、皆さん驚かれます(笑)。しかもドラフトでは5位指名だったのですが、ロッテの他にヤクルト、南海と3球団も競合したんです。

二宮: スカウトはどこで西村さんを見つけたのでしょう?
西村: 後で聞いた話ですが、おそらく一番のきっかけは社会人3年目の日本選手権の予選だったようですね。北九州市民球場で行なわれたのですが、その試合で僕がランナーとして一塁にいて、次の打者がライト線にヒットを打ったんです。それで僕が一気にホームまで返った。その時、「プロでも通用する足だ」とスカウトの目に留まったようです。

 ピリピリムードのロッカー

二宮: 翌年のドラフトで5位指名されてロッテに入団するわけですが、希望の球団はあったんですか?
西村: はっきり言って、プロに行けるならどこでも良かったですね。まぁ、しいて言えば、セ・リーグがいいかな、というくらい。ただ、ロッテは当時、鹿児島でキャンプを行なっていましたので、社会人時代にはチームメイトと紅白戦を観に行ったりしていたんです。だから愛着のあるチームのひとつではありましたね。

二宮: 当時のパ・リーグ、特にロッテといったら、個性的な選手が多かった。
西村: そうですね。正直、それまで自分が抱いていたプロ野球のイメージとは、だいぶ違うものでした。とにかくすごい雰囲気でしたよ。

二宮: みんなお山の大将みたいな人ばかりでしたからね(笑)。
西村: ゲーム中も、「いつ、ケンカが始まるのかな」って思っていましたから(笑)。チームの中でも、相手チームにも、野球で勝負しているはずが、たまに途中で違う方向にいってしまうことがあって……。「えっ!? これがプロ野球?」と驚くようなことがたくさんありました。

二宮: 当時のロッテと言えば……。
西村: 有藤通世さん、村田兆治さん、落合博満さん……。

二宮: うわぁ、すごいですね。
西村: 皆さん、独特のオーラがありましたね。いつもロッカーの雰囲気がピリピリしていました。僕はその雰囲気が怖くて、あまりロッカーには行かないようにしていたんです。そうすると、どこに逃げるかっていったら、もうトレーニングルームしかないわけです。試合前の練習後、そこで過ごすことが多かったですね。もちろん、のんびりできたわけではありませんよ。いつ、どの先輩が来るかわからないわけですから、一生懸命にウエイトトレーニングをする以外ない。入団当時、僕は身体が細かったのですが、その時のウエイトトレーニングのおかげで、ある程度の身体はつくれましたから、かえって良かったかなと。

二宮: 入団時のポジションは?
西村: 高校、社会人とセカンド、ショート、センターといろいろなポジションをやらせてもらったのですが、ロッテには内野手として入りました。

二宮: 有藤さん、落合さん、そしてリー兄弟の弟レオンと、内野は固定されていましたから、ポジション獲りも大変だったでしょう?
西村: はい。でも、ちょうどタイミングが良かったんですね。有藤さんがサード、落合さんがセカンドをやっていたのですが、有藤さんがもうだいぶベテランになっていましたから、僕が入団して1、2年で落合さんをサードにという話が浮上していたんです。それで「じゃあ、セカンドは?」ということになったわけです。当時は左バッターが少ないこともあって、入団1年目のオフからスイッチヒッターに転向していた僕の名前があがったんでしょうね。

 スイッチを成功させた猛特訓

二宮: スイッチヒッターへの転向は、監督だった山本一義さんのアイディアですか?
西村: 山本さんと当時バッティングコーチだった高畠導宏さんが話をして、決めたのではないかと思います。

二宮: スイッチヒッターといえば、当時は広島の高橋慶彦さんが有名でしたね。1979年には33試合連続安打の日本記録をマークし、日本シリーズではMVPと打撃賞に輝き、球団初の日本一に貢献しました。
西村: その高橋さんをスイッチヒッターにしたのも山本さんでした。僕も転向してしばらくは、山本さんの指導を受けていました。その後は、高畠さんがそれこそ朝、昼、晩と一日中付きっきりで教えてくれましたね。

二宮: 西村さんはもともと右利きで、それまで左で打ったことは一度もなかったわけですから、相当苦労したでしょう。
西村: 大変でしたね。もう、毎日毎日、猛特訓で本当にきつかった。正直、「なんでここまでしてやらなくではいけないんだ」と思ったこともありました。

二宮: 以前にもお伺いしましたが、バットを握り過ぎて、手が開かなくなってしまったそうですね。
西村: はっきりした数はわかりませんが、1日1000〜1200本はやったんじゃないですかね。スイッチヒッターに転向した選手は皆、それくらい振り込んだと思いますよ。

二宮: とにかく量をこなすと。
西村: はい。そういう時代でもありましたからね。とにかく、朝が一番大変でした。顔を洗おうとしても手が開かないものですから、お湯で指の関節を温めたこともありました。

二宮: 今の時代、そんな話は聞かなくなりましたね。
西村: 器用な選手が多いんでしょうかね。僕たちの頃のような練習量をこなしていないのに、それでいて試合ではそこそこの結果を残してしまうわけですから。僕なんかは不器用でしたから、必死で練習せざるを得なかった。

二宮: 高橋さんも不器用だ、と言っていましたが、不器用だと自覚しているから努力するんでしょうね。
西村: そうかもしれませんね。あれだけの量をこなしていると、どんな練習でも平気になってくるんですよ。

 盗塁失敗でベンチからも叱声

二宮: レギュラーを獲ったのは何年目でしたか?
西村: 3年目です。124試合に出場して打率2割8分5厘。その頃から、ようやくプロの世界で自分もなんとかやっていけるんじゃないかと思いました。

二宮: 5年目の86年からは4年連続で盗塁王に輝きました。盗塁は本当に難しいですよね。成功すればいいですが、失敗すればチームの足を引っ張ってしまう。紙一重のところで勝負しなければならない。
西村: 失敗した時は、ベンチからも厳しい声が挙がりましたよ。覚えているのは、確か2年目か3年目の時だったかな、1試合で2つ失敗したことがあったんです。2つ目を失敗してベンチに帰って座るや否や、後ろから「オマエ、もう走るな!」と。「あんな2つもアウトになりやがって。もう走るな!」と怒られたことがありました。

二宮: 特にクリーンナップにとっては、走者がいなくなれば打点を稼ぐチャンスが減るわけですからね。
西村: 僕が1番を打たせてもらっていた時、3番がリー兄弟の兄のレロンで、4番が落合さんだったのですが、2人からはそういうことは言われませんでしたね。逆に、「どんどん走れ」と言ってくれていました。落合さんはバッティングに対しても親切に教えてくれました。僕がスイッチに替わって次の年、後楽園でオープン戦があった時、落合さんの方から「午前の練習前に、ちょっと山内一弘さんのところに行こう」と誘ってくれたんです。山内さんのご自宅が後楽園のすぐ近くにあって、落合さんと一緒に早朝に訊ねたのですが、庭で山内さんにバッティングを指導してもらいました。

二宮: 山内さんといえば、インコース打ちの名人。「やめられない、止まらない」というフレーズから「かっぱえびせん」と言われていたくらい、とにかく熱心な指導をされる方でした。
西村: その時も汗びっしょりになるくらい熱心に教えていただきました。その後のバッティングに大きな影響を与えたことは言うまでもありません。

 強い打球を求めての試行錯誤

二宮: 4年連続で盗塁王を獲得した後、90年には打率3割3分8厘をマークして首位打者に輝きました。3打数のうち1本以上、ヒットを打ったわけですね。
西村: 感覚的には毎試合2本以上打っているようでした。改めて「3割打つのって大変だな」と思いました。

二宮: どういうバッティングを心掛けていたのでしょう?
西村: 僕は基本的に逆方向に強くゴロを打つという意識を持っていました。

二宮: バッティングのコツみたいなものをつかんだ瞬間はありましたか?
西村: 首位打者を獲った前年、数字的には打率2割8分1厘とまぁまぁの成績だったのですが、自分の感覚としては強い打球が打てていなかったんです。それで、コーチといろいろと相談する中で、原因は左打席の時の左手だろうと。左で構えて打ちに行く時に、左手の使い方が弱いため、どうしても左手が下がるんです。そうするとバットのヘッドも下がりますよね。僕としては、上からバットを叩きつけて強い打球を転がしたかったので、ヘッドを立たせたかった。「じゃあ、どうすれば左手を強く使えるのか」ということで考え出したのが、左手の握りの位置を上げてみようと。

二宮: 右手はグリップの位置のまま、左手だけを上げると。どのくらい上げたんですか?
西村: ティーバッティングの時に、思い切って左手をバットの真ん中付近まで上げて打ってみたんです。そしたら、左手がうまく使えたんですね。でも、それではピッチャーの速い球を打つことができませんから、実際のゲームでは3センチくらい上げていました。

二宮: バットを握る右手と左手の間に3センチほどの隙間をつくるわけですね。そうすると、振り切ることができないのでは?
西村: いえ、それがうまくバランスが合ったんです。右手で引っ張っていきながら、左手で送り出してかぶせていく。そうすると、強い打球が打てるようになったんです。

二宮: 西村さんほどの足があれば、三遊間に打てば、ボテボテのゴロでも内野安打になったでしょうね。
西村: そうですね。センターから左方向に転がせば、ヒットの確率は高かったですね。でも、他球団もだんだんとわかってきますから、僕が打席に入ると、三遊間をメチャクチャ狭めるんです。その狭い間を抜く練習ばかりしていました。だからこそ、抜いた時の快感がありましたね。

二宮: 試行錯誤の末の首位打者だったわけですね。
西村: 工夫しなければ、身体的にも大きくないのに、そこまでの実績を残せませんでしたからね。

 引退を覚悟した指揮官の言葉

二宮: 16年目の97年は、わずか1試合。この年限りで引退されたわけですが、決意した理由は?
西村: その数年前からケガが多くて、満足な結果を残すことができていなかったんです。97年に監督に就任した近藤昭人さんから開幕前に呼ばれまして、「一軍登録はしないから」とはっきりと言われました。

二宮: それは、ショックだったでしょう。
西村: そうですね。僕としては1500試合出場まで70を切っていましたから、なんとかそこまでは、と「今年1年、勝負したい」と話しました。でも、「悪いけど、若い選手を使いたいからオマエを使うことは考えていない」と。ただ、「その代わり、二軍で若手を指導してほしい」と言われたんです。

二宮: コーチ兼任だと?
西村: はい。すぐに返事をすることはできませんでしたから、「1週間ほど、時間をください」と。いろいろと考えた末に承諾しました。それが引退のきっかけでしたね。

二宮: だいぶお酒も進んできました。改めて「そば雲海 黒麹」のSoba&Sodaの感想を。
西村: いやぁ、とても飲みやすくて、もうこれで何杯目でしょうか(笑)。このさわやかなのどこしが、ついクセになってしまいそうです。今年も残暑が厳しいそうですが、そんな時こそ欠かせない一杯になりそうです。

(後編につづく)

西村徳文(にしむら・のりふみ)
1960年1月9日、宮崎県生まれ。福島高2年時に甲子園に出場。鹿児島鉄道管理局を経て、83年ドラフト5位でロッテに入団した。1年目のオフにスイッチヒッターに転向し、3年目にレギュラーを獲得。86年から4年連続で盗塁王、90年には打率3割3分8厘をマークして首位打者に輝いた。97年に現役を引退し、翌年からコーチに就任。2010年には監督就任1年目で日本一に導いた。現在はプロ野球解説者として活動している。

★今回の対談で楽しんだお酒★[/color]

本格焼酎「そば雲海」の黒麹仕込み「そば雲海 黒麹」。伝統の黒麹と九州山地の清冽な水で丹精込めて造り上げた、爽やかさの中に、すっきりと落ち着いた香り。そしてまろやかでコクのある味わいが特徴です。
提供/雲海酒造株式会社

<対談協力>
羅豚 川崎店
川崎市川崎区小川町4−1ラ・チッタデッラ1F
TEL:044-221-6500
営業時間:
月〜金 ランチ 11:00〜16:00(L.0.15:00)
月〜金 ディナー 17:00〜23:00(L.0.22:00)
土日祝 11:00〜23:00(L.0.22:00)

☆プレゼント☆
 西村さんの直筆サインボールを本格焼酎「そば雲海 黒麹」(900ml、アルコール度数25度)とともにプレゼント致します。ご希望の方はより、本文の最初に「西村徳文さんのサインボール希望」と明記の上、下記クイズの答え、住所、氏名、年齢、連絡先(電話番号)、このコーナーへの感想や取り上げて欲しいゲストなどがあれば、お書き添えの上、送信してください。応募者多数の場合は抽選とし、当選は発表をもってかえさせていただきます。たくさんのご応募お待ちしております。なお、ご応募は20歳以上の方に限らせていただきます。締め切りは8月30日(金)までです。
◎クイズ◎
 今回、西村徳文さんと楽しんだお酒の名前は?

 お酒は20歳になってから。
 お酒は楽しく適量を。
 飲酒運転は絶対にやめましょう。
 妊娠中や授乳期の飲酒はお控えください。

(構成:斎藤寿子)
◎バックナンバーはこちらから