2010年、里内が大宮アルディージャからの契約延長を断って、ロンドン五輪代表のフィジカルコーチを引き受けた最大の理由は、06年ドイツW杯にあった。
 02年にジーコが代表監督に就任してからの日本代表は、中国で行われたアジアカップ(04年)で優勝。05年には世界で最初にW杯出場を決め、コンフェデレーションズカップにも出場した。コンフェデ杯ではメキシコとブラジルに敗れたものの、ギリシアに勝ち、本大会へ期待を持たせた。中田英寿、小野伸二、稲本潤一、そして中村俊輔――中盤に関しては史上最高といってもいい、才能ある選手を揃えていた。
(写真:ドイツW杯での惨敗が里内を再び世界の舞台へと掻き立てた)
 ところが、迎えた本大会緒戦のオーストラリア戦は、1点リードした状態から、後半終盤の7分間で3点を奪われて逆転された。続くクロアチア戦は引き分け、ブラジル戦は敗戦。0勝1分2敗の成績でグループリーグ敗退を喫した。期待が大きかった分、惨敗だった。

 ジーコはオーストラリア戦を振り返って「あの7分間で、自分がこれまで日本で積み重ねたものが全て否定されたような気がする」とぼくに語ったことがある。それはフィジカルコーチとして帯同していた、里内も同じだった。

 五輪代表スタッフ就任は、4年前の自分へのリベンジの意味合いを持つとともに、日本人として世界を勝ち抜くという挑戦でもあった。

 里内を誘ったのは、鹿島アントラーズ、川崎フロンターレで同僚だった、五輪代表監督の関塚隆である。川崎という予算が限られたクラブで、中村憲剛などの無名の人材を発掘、育成してきた関塚は、若年層の監督には適任だったといえる。その関塚がまず心を配ったのが、スタッフ編成だった。

 というのも、日本サッカー協会の管理下にある代表スタッフ構成には、様々な思惑、力学が働くからだ。例えば、外国人監督を招聘した場合、経験を積ませるため、協会が日本人のスタッフを入れることを要求する。また、監督が望むスタッフはJリーグのクラブに所属していることが多く、本人が代表スタッフ入りを希望しても、契約期間内であればクラブから拒否されることもある。常にクラブと1年ごとに契約を結んでいたため、すんなりと代表スタッフ入りした里内はごく例外だった。

 スタッフ選考に関して、関塚はテクニカル・スタッフの編成を重要視した。代表チームの活動は限られているだけに、スタッフ・ワークを第一に考えた。それぞれ担当はあっても同じ目線で意見交換できる雰囲気にしたのだ。

 チームの組閣が終わると、関塚監督らスタッフたちは分担して、週末のJリーグ、あるいは全国の大学チームの試合を視察した。滋賀生まれの里内はつてを辿って地元の関西はもちろん、九州の大学リーグにまで足を伸ばした。

 月曜日に東京に戻ると、サッカー協会の会議室に集まって、持ち寄った情報を交換した。昼過ぎから始まった会議は、6時過ぎになっても終わらなかった。そして、場所を移しての意見交換は朝方まで続くこともしばしばであった。

 月に1回はミニキャンプを張って選考対象となる選手を練習や試合で視察した。招集のための選考基準はまず試合に出場していること。この世代のみならず、ゲーム・コンディションは非常に重要だからだ。主力ではなくても、サブメンバーとして交代出場している選手、ユース年代で召集経験のある選手を追跡して現状も把握した。加えて海外クラブで活動している選手の情報収集など、様々な角度から選手選考を行った。
(写真:里内は関塚を「用意周到な人間」と評する)

 特に若い選手は、練習試合は行っていても真剣勝負の実戦経験が不足していた。Jリーグの強豪クラブに所属している有望な選手であっても、試合に出ていない場合は、招集を見送らなければならないこともあった。

 その上で、どのような選手を選抜するか――。里内は選考基準をこう簡単に表現した。「世界で勝つために、強くてタフな奴」
 技術面、戦術面はもちろん、コンタクトプレーに強い選手であることも判断材料のひとつだった。日本人らしい機動力を備え、外国人選手との激しい接触にも対等に戦える選手をはめ込み、アクセントをつける。監督の関塚も同じ考えだった。

 日本人にとって体格の近いスペイン人たちが繰り広げる、FCバルセロナのパスサッカーは魅力的だ。正確な技術による素早いパス回し――06年W杯で日本がオーストラリア代表にやられた体格と激しさに任せたサッカーとは対極にある。こぞって日本の指導者がバルセロナを目指したのは当然のことだったろう。

 だが、里内たちが描いたのは前線にポーンと長いボールを蹴って足の速いフォワードがそれをかっさらって点を取るサッカーだった。華麗ではないかもしれないが、それでも1点――。そして下手でもいい、必死でボールを追い回して1点を守り切る。世界で勝つには、しぶとく、強く逞しいサッカー選手が必要だと考えたのだ。

 里内ら代表スタッフは、様々な方面から情報収集を行い、個性的な選手の発掘に注力した。日本サッカーの育成制度は、世界でも類を見ないくらいに情報網が張り巡らされている。早い時期から各地域の優秀な選手を選抜して集める。いわゆるトレセン制度である。このトレセンで選抜された選手らがユース代表などに選出され、Jクラブのトップチーム入りを果たしていった。

 ただ、最近では、トレセンで選抜された優秀な選手は大学サッカーへ流れていく傾向にある。これは大学サッカーの練習や試合環境が大きく変わったことも影響している。里内たちは、そうした観点に立ってJ1クラブ、J2クラブ、各地域の大学リーグなど多方面から選手をすくい上げようと考えた。

 この五輪代表選考は、タフに戦い抜けるサッカーを目指し、それを体現できる選手を発掘するというコンセプトの下にスタートした。その象徴となる選手が九州にいた。当時、福岡大学に所属していた永井謙佑である。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち—巨大サッカービジネスの闇—』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)。最新刊は『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)。早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』『実践スポーツジャーナリズム演習』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。
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