2012年2月5日、U-23日本代表はアウェーでシリアと対戦した。勝てばロンドン五輪出場権を獲得できるという試合だった。
 ところが日本は1対2と敗れてしまう。シリアと日本は3勝1敗の勝ち点9で並び、得失点差で日本はグループCの2位に後退した。ロンドン五輪の出場権を獲得できるのは各グループ1位。2位はプレーオフに回ることになる。
(写真:里内はシリア戦のピッチ状態が「最悪だった」と振り返る)
 里内はシリア戦の敗因は「2つある」と振り返る。
 1つは試合当日まで土砂降りで、粘土質のピッチだったことだ。日本のスタジアムの芝は整備されている。選手たちは、ぬかるんだ質の悪いピッチでの経験に欠けていた。
 もう1つは、シリアは日本の若い世代が苦手とする種類のチームだったことだ。シリアの他にもトルコ、ヨルダン、イラク……里内はそれらを「レスリングの強そうな国」と形容する。

「ずんぐりむっくりで、がしっとした身体。それでいて、足技も下手ではない。ロングボールを放り込んでくるようなサッカーではなく、シンプルに繋いでくる。彼らに球際の一瞬で負けてしまう傾向がある」

 とはいえ、シリアに敗れた後、里内たちは冷静だった。
 シリアは近隣諸国のバーレーンとの対戦を残している。彼らは強烈な対抗心を持ち合っており、シリアもバーレーンには簡単に勝てないだろう。日本はアウェーでマレーシア、そしてホームでバーレーンと戦う。この2試合に勝利すれば、出場権を手にすることができると考えていたのだ。

 その予想は当たった。2月22日の試合でシリアはバーレーンに敗北。日本はマレーシアに4対0と快勝し、再びグループ首位に返り咲いた。そして、3月14日に行われた予選最終戦で、日本はバーレーンを2対0で下し、五輪出場権を獲得した。

 日本はグループCを5勝1敗で終えた。このアジア最終予選で5勝を挙げたチームは他にはない。圧倒的な結果だったと言える。

 4月24日、ロンドン五輪男子サッカーの組み合わせ抽選が行われた。
 五輪は16カ国が4カ国ずつの4グループに分かれて、各組2位までが決勝トーナメントに進出する。日本はスペイン、ホンジュラス、モロッコと同じグループDに決まった。

 里内たちの次の仕事は、誰を五輪に連れて行くかを決めることだった。
 五輪はサッカー界では特殊な大会だ。W杯登録メンバーが23人なのに対して、五輪は18人。そして試合間隔は2日おきだ。五輪は多数の競技が同時に開催される巨大大会である。決められた期間内に全試合をこなすため、過密日程となっていた。適度に休みをとらせながら、18人を効率良く回していく必要があった。

 あるポジションの選手が怪我をした場合、他のポジションの選手を代役にすることもあるだろう。そのためゴールキーパー以外は最低2つのポジションをこなせることが条件だった。いわゆる「ポリバレント」な選手である。

 そして何より、このチームの結成から掲げてきた、世界に通用する強い選手でなければならない。その選考の場となったのが、トゥーロン国際大会だった。
 トゥーロン国際大会は1967年から始まった若手選手を対象とした歴史ある大会である。77年からFIFA公認大会となり、若手発掘の場として世界各国のサッカー関係者が足を運んでいる。毎年5月末から6月にかけて行われ、五輪やU-20W杯など大きな大会の参加国が招待される。2012年も8カ国が招待され、4カ国に分かれてリーグ戦を行い、上位2チームが決勝トーナメントに進出することになっていた。
(写真:関塚監督はトゥーロンのメンバー選考で「連戦のきく選手を選んだ」ことを明かした)

 日本はエジプト、オランダ、トルコと同組に入った。招集メンバーは20人。大会で目立ったのは国外のクラブに所属する選手たちだった。
 シュツットガルト(ドイツ)の酒井高徳、セビリア・アトレチコ(スペイン)の指宿洋史、ボルシアMG(ドイツ)の大津祐樹(現VVV)、ユトレヒト(オランダ)の高木善朗、そしてバイエルン・ミュンヘン(ドイツ)の宇佐美貴史(現G大阪)――このなかで攻撃陣の誰を残すかがポイントだった。

 フランス南東部で行われた大会で目を引いたのは、大津の球際の強さだった。彼の身体の強さは体格に勝る相手にも負けていなかった。
 そして宇佐美が、第2戦のオランダ相手に存在感を出した。宇佐美はロンドン五輪世代では最も下の学年である。末っ子的な身勝手さはあったものの、独特の攻撃センスは魅力的だった。攻撃の柱は名古屋グランパスの永井謙佑となることは決まっていた。その永井が怪我、あるいは調子が良くない場合の選手として宇佐美は使える、と里内は思った。

 残るはオーバーエージ(OA)枠の選択だった。前回の北京五輪ではOA枠を使用していない。これまで予選を戦ってきた仲間を外して、24才以上の選手を入れる。選考を間違えれば、チームがばらばらになる危険性があった。
 まずは、チームに足りないパーツを補うポジションの選手であること。そして年齢が近く、リーダーシップがとれること。できれば日本代表に選ばれていること。この選択基準に照らし合わせてリストに残ったのが、VVVフェンロ(オランダ)の吉田麻也(現サウサンプトン)とFC東京の徳永悠平だった。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち—巨大サッカービジネスの闇—』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)。最新刊は『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)。早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』『実践スポーツジャーナリズム演習』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。
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