主にサッカーのリフティング技術を用い、体全体を使ってボールを自在に操る。ボール1つで自身のスタイルを表現するスポーツが、フリースタイル・フットボールだ。大会などではアップテンポなBGMに乗って、選手が技を披露する。“Tokura”こと徳田耕太郎は、昨年に行われた世界最高峰の大会「第3回Red Bull Street Style(RBSS)」のワールドファイナル(イタリア・レッチェ)で史上最年少王者(当時21歳)となった。現在は東京の大学に通いながら、レッドブル社所属のアスリートとして国内外でショーや大会に参加している。
 練習場所は自販機の前!?

 徳田は愛媛県大洲市に生まれ、小学校入学と同時に、隣町の少年団でサッカーを始めた。3歳上の兄がサッカーをやっていたことが影響していたという。徳田は中学校でもサッカー部に所属した。そんなサッカー少年だった彼が、フリースタイル・フットボールと出合ったのは中学1年の冬だった。

 地元の書店で徳田の目に留まったのが「NIKEフリースタイル・フットボール」(通称NIKE本)だった。NIKE本には、リフティングによる多種多様な技の解説と連続写真が載っており、DVDも付いていた。「おもしろうだな」と感じた徳田は、本を購入し、それを見ながら空いた時間に遊び感覚で技を練習するようになった。
「最初は2日かけてひとつの技を覚えることができました。すると、『じゃあ次の技をやってみよう』と。練習すれば上達するのがすごく実感できて、楽しくなってきたんです」
 徳田はすっかりフリースタイル・フットボールの虜になった。

 練習場所は自宅近くの空き地や自宅の庭、さらには家の中でもボールを蹴ったという。そして、外で練習していて日が暮れると、徳田の姿は自動販売機の前へと移る。
「夜、明りのあるいい場所がなかったので(笑)。自販機には蛍光灯が下のほうに付いているので、割と足元が見やすいんですよ」
 徳田は当時をこう振り返った。しかし、夜遅くまでボールを蹴っている姿は、周囲の目を引いた。

「当時は地元でフリースタイル・フットボールをやっている人はいませんでしたからね。地元の人は『何をやっているんだろう』と不思議そうに見ていました(笑)。」

 そんな周囲の目はまったく気にはならなかった。もっとフリースタイル・フットボールがうまくなりたい――徳田の思いはそれだけだった。

 大一番で見せた新技

 中学卒業後に進学した帝京五高では、サッカー部には入らなかった。放課後になると空き地や自販機の前、運動部が使用していない体育館のスペースなどで1日に2〜3時間、フリースタイル・フットボールの練習に励んだ。友人などを競技に誘うこともあったが、長く続ける者は少なかったという。逆に、体育会系の教諭から「サッカー部に入ればいいじゃないか」と声をかけられたこともあった。当時、いかにフリースタイル・フットボールが競技として認知されていなかったかを表すエピソードといえる。そのため、徳田の才能を見抜く者もいなかった。

 徳田が“フリースタイル・フットボーラー”として、初めて栄冠を手にしたのは高校3年の春だった。2009年5月2日、彼はRBSSの国内予選に参加した。予選は東京、名古屋、大阪で行われ、各会場での上位5名と予選をシードされた前回王者が、横浜でのジャパンファイナルに進出する。徳田は名古屋会場での予選に出場し、ギリギリの5位でジャパンファイナル進出を決めた。
「名古屋大会が最初に開催されたので、(5月31日の)ジャパンファイナルまでは他の予選に出た選手よりも練習時間がありました。ですから、予選後はいい結果残すために、必死に練習しましたね」

 5月31日、横浜・赤レンガ倉庫がジャパンファイナルの舞台だった。大会は1対1のバトル形式で、1試合3分の中で20秒ずつ交互にパフォーマンスを披露。3人の審査員が「ボール・コントロール」「クリエイティビティ」「スタイル」の3項目で勝敗をジャッジする。

 徳田は、1回戦からいきなり試練を迎えた。対戦相手が、前年のRBSSワールドファイナルで準優勝した選手だったのだ。試合はお互いに高い技術を披露する拮抗した展開となった。終盤、相手がボールを両足に挟んだままバック宙する大技を仕掛けたが、ボールがこぼれた。一方で、徳田はバック宙しながらボールを空中に投げ出す新技「バックフリップリリース」を決めた。名古屋の予選後から準備していた“とっておき”だった。

「試合前は負けるかなと思っていました。そしたら、諦めた瞬間に緊張が解けたんです」
本人がこう語るように、徳田は小さなミスを1度犯したのみで、完成度の高いパフォーマンスを披露した。3人のジャッジの判定によって勝者に選ばれたのは徳田だった。

 17歳の快進撃は止まらなかった。新技のインパクト、技術の高さで会場を沸かし、対戦相手を圧倒。決勝では少しミスが目立ったものの、最後にバックフリップリリースを決めるなど、見せ場をつくった。そして、審査員の元サッカー日本代表・福西崇史氏がファイナリスト2人の手を握り、勝者を発表した。高々と上げられたのは、徳田の手だった。
「僕が優勝することは、誰も予想していなかったと思います」
 予選をギリギリの5位で通過した17歳は、決戦の地で強敵を撃破し、一気に日本の頂点へ駆け上がった。そして、翌年に開催される第2回RBSSワールドファイナルの出場権も獲得した。

 愛媛に帰ると、高校の校舎には「日本選手権優勝」という垂れ幕がかかっていた。中学1年で競技を始め、たったひとりで黙々と練習に励んできた。周囲から不思議がられていた少年は、自らの実力で、“日本一”の肩書きを手に入れたのだ。

(第2回につづく)

徳田耕太郎(とくだ・こうたろう)
1991年7月21日、愛媛県生まれ。中学1年の冬にフリースタイル・フットボールと出合う。選手名は“Tokura”。2009年にレッドブル・ストリートスタイル(RBSS)日本大会で優勝し、翌年の同世界大会に出場。12年RBSS日本大会を連覇。同年にイタリア・レッチェで行われたワールドファイナルでは、アジア人初、史上最年少で世界王者となった。その後、レッドブル社とアスリート契約を結んだ。機械のような正確さと速さに加え、空中のボールをバック宙しながら両ヒザで挟み込んで着地する「Tokuraクラッチ」といった大技も併せ持つ。身長169センチ。



(写真・文/鈴木友多)
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