「ノートがなくなっているのに気付いた時は、もうパニックでしたね」
 徳田耕太郎は苦笑しながら、こう振り返った。アイデアノートには大会の演技構成やこれまで開発してきた技も書かれてあった。ほとんど日本語表記のため、外国人が持ち去っても内容を理解できるとは考えにくかった。大会中、徳田がノートを確認しているのを見て、単に彼を混乱に陥れるための嫌がらせだったのだろうか。徳田は、いかにしてこのトラブルを乗り越えたのか。
「もうアドリブでいこうと割り切りました。自分のインスピレーションに任せようと」
 こう気持ちを切り替えられたのも不断の努力を行っている自信があってこそだ。徳田は普段、「3〜5秒くらいの流れを、ひたすら繰り返し練習する」という。そうすると、短時間の“流れ”が数パターンできる。それらを組み合わせて、30秒というひとつの構成にするのだ。つまり、“流れ”という引き出しがあればあるほど、多様なルーティーンを組むことができる。彼は努力を積み重ねることで、引き出しの多さとともにトラブルにも屈しないだけの自信も得ていた。

 準決勝の相手は大技が少ない選手だった。これに対して徳田は随所に逆立ちやバックフリップリリースなどのアクロバティックな技を組み入れ、演技にメリハリをつけた。相手がミスを連発する中で、彼自身は1度のみに抑えた。結果、判定5−0の大差で勝利。世界一まで、いよいよあと1勝となった。

 カンナバーロも称賛した技術

 迎えた決勝戦。直径8メートルの円形のバトルフィールドに徳田とDan(アイルランド)が並び立った。2人の名前がアナウンスされると、会場は大きな歓声に包まれた。場内には約3000人、パブリックビューイングも含めると観衆は約1万5000人に上った。

 先攻のDanは最初のターンの終盤に、ボールを観客席へ落としてしまうミスを犯した。大観衆そして世界一がかかる中でのパフォーマンス。Danは緊張に呑まれているように映った。しかし、対する徳田は実に楽しそうに、ボールを蹴った。素早い足さばきでエアムーブ系の技を繰り出し、最後は空中にあるボールを逆立ちしてキャッチする技を決め、第1ターンを終えた。第2ターンでは、シッティングでのルーティーンを披露し、リズミカルかつ正確なボールタッチで会場のボルテージを上げた。

 そして、最終ターン。徳田は大技の「Tokuraクラッチ」を仕掛けた。1度はキャッチで失敗したものの、2度目のチャレンジで見事に成功。終了のブザーが鳴り響く中、徳田の表情には笑顔が溢れていた。

 審査が終わると、特別審査員を務めたサッカー元イタリア代表ファビオ・カンナバーロがバトルフィールドに上がり、2人の手を握った。そして、カンナバーロによって挙げられた手を見て、MCが叫んだ。「Tokura!」。次の瞬間、紙吹雪がバトルフィールドの上を舞い、徳田は祝福に沸く観客たちにもみくちゃにされた。
(写真:カンナバーロ<中央>に手を挙げられる徳田。Dean Treml/Red Bull Content Pool)

「パフォーマンス後、自信はあったのですが、やっぱり、手を持たれると『ああ、わからないな』と緊張しました(苦笑)。手を挙げられた瞬間は、本当に嬉しかったですね」
 徳田は噛みしめるように歓喜の瞬間を振り返った。欧州勢の活躍が目立つなかで、アジア人初、また当時20歳の徳田は史上最年少での優勝だった。そんな世界王者をカンナバーロは「人生の大半をサッカーと共に過ごしてきたが、このようなボール・コントロールは見たことがない」と称えた。

「フリースタイルフットフットボールは、ジャッジだけではなく、オーディエンスにもすごさが伝わらないといけません。そうしないと会場の雰囲気を作り込めない。だから僕は繊細な技のほかに、宙返りなどの大技の練習にも取り組んできました。そういう普段からの練習が、世界一につながったと思います」
 徳田がこう語るとおり、審査員、観客といった会場にいるすべての人々を魅了した結果の世界一だった。

 ネイマールから得た刺激

 一夜明けると、徳田はスターになっていた。宿泊先のロビー、街中などで、写真とサイン攻めにあった。帰国後も数々のメディアに取り上げられるなど、彼の認知度は急上昇していった。帰国後のショーへの出演も、国内中心だった依頼が海外からも多くくるようになったという。

 12年12月にはレッドブル社とアスリート契約を締結。世界的な企業のバックアップを得て、競技に専念できる環境も整った。
「活動の幅は格段に広がっています。レッドブルが関連するF1やブレイクダンスの大会など、いろいろなところでパフォーマンスをさせてもらい、自分が想像もしていなかったことが実現しています」

 また同時期には、RBSS2012優勝の副賞として、ブラジルに渡った。現地のフリースタイル・フットボーラーと交流したり、名門サンパウロFCのホームゲームでパフォーマンスを披露した。そして、サッカーの同国代表で同じレッドブル・アスリートのネイマールとのセッションが実現した。
「ネイマールなどの有名な選手に会うことができて、かなりモチベーションが上がりましたね。彼らはサッカーという世界でも最も人気のあるスポーツのトップにいて、自分はまだまだフリースタイル・フットボールの大会で一度優勝をしたに過ぎない。これからの使命として自分がフリースタイル・フットボールを盛り上げていかなければいけないし、もっと高いところを目指してやっていこうと思いました」

 愛媛で競技に出合ってから7年。徳田は世界のフリースタイル・フットボーラーの頂点に立った。常に世界のトップであり続ける――これが徳田の新たな目標となった。

(最終回へつづく)

徳田耕太郎(とくだ・こうたろう)
1991年7月21日、愛媛県生まれ。中学1年の冬にフリースタイル・フットボールと出合う。選手名は“Tokura”。2009年にレッドブル・ストリートスタイル(RBSS)日本大会で優勝し、翌年の同世界大会に出場。12年RBSS日本大会を連覇。同年にイタリア・レッチェで行われたワールドファイナルでは、アジア人初、史上最年少で世界王者となった。その後、レッドブル社とアスリート契約を結んだ。機械のような正確さと速さに加え、空中のボールをバック宙しながら両ヒザで挟み込んで着地する「Tokuraクラッチ」といった大技も併せ持つ。身長169センチ。



(写真・文/鈴木友多)
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