「今年の3冊」という文化がある。主要な全国紙などが行なう年末恒例企画で、それぞれの書評執筆者が、その年に刊行された書籍のベスト3をあげて、短く論評する。2013年の暮れも、各紙とも書評子の方々の個性が出て、華やかな書評面であった。
 めでたく新年を迎えたけれども、私もこれを真似て、“去年の3冊”を考えてみた。慌ててお断りするが、通常、書評では、政治・経済・社会・科学・思想・文学といった分野の優れた著作を扱う。私の場合は、もちろん、そんな博覧強記の立派な読書家などではない。あくまで、去年、たまたま読んだ本の中から、ということです。すなわち、以下は「極・極私的2013年今年の3冊」――。

?『クオリティピッチング』(黒田博樹著、KKベストセラーズ)
?『流星ひとつ』(沢木耕太郎著、新潮社)
?『失踪日記2――アル中病棟』(吾妻ひでお著、イースト・プレス)

 ?は、野球好きにとっては、とにかく文句なしに面白い。黒田(ニューヨーク・ヤンキース)もよくぞここまで書いたものだと感心するが、詳細は後で。?は、昨年、急死した藤圭子さんが、28歳で歌手を引退する際に沢木氏が行ったインタビューを、以来33年の封印を解いて刊行したノンフィクション。ここでは内容に立ち入らないが、たとえば、歌手・藤圭子が阿木燿子さんを論じるくだりなど、歌手とはこういうものかと、感銘を受けた。?は『ふたりと5人』『やけくそ天使』『ちびママちゃん』(個人的にはこれを言いたい)などで知られる吾妻ひでおさんが、自らのアルコール依存症治療をテーマに描いたマンガ作品。

 実は??にはいろいろ迷った。『宇宙はなぜこのような宇宙なのか』(青木薫著、講談社現代新書)も捨てがたい。なにしろ宇宙論と、人間原理といういかにも人間中心主義な思想が、否応なく結びつくところを鮮やかに整理して描いていて、実に面白い。『吉本隆明――詩人の叡智』(菅野覚明著、講談社「再発見 日本の哲学」)もある。吉本隆明論としては、究極なのではあるまいか。全集の刊行も始まるようですし。と、まあ、悩んではみたのだが、そこは結局、宇宙論より哲学より、吾妻ひでおを選択したということですな。

 フォークの握り方から見えるもの

 というわけで、?にいこう。黒田の『クオリティピッチング』は、彼がメジャーリーグで投手を続けるうえでの技術論が、実に詳細に書かれている。「マウンドの現場の思想書」とでも名付けたくなる。「おわりに」に、こんなに書いて大丈夫なのか、と心配されたという話が出てくる。彼は書く。
<けれど、万が一、相手バッターがここに書いた僕の考えを知ったとしても、今度はそれを逆手に取ればいいだけのことです。>
 ね、覚悟というか迫力というか、すごいでしょ。

 昨年の日本人メジャーリーガーの活躍について論じようとすると、まず思い浮かぶのは、クローザーとしてボストン・レッドソックスのワールドシリーズ優勝に貢献した上原浩治。そして、奪三振王(277個)に輝いたダルビッシュ有(テキサス・レンジャーズ)。野手では、青木宣親(カンザスシティ・ロイヤルズ)が奮闘していたけれども、まぁ、この2人の投手というのが相場だろう。実際、NHKは昨年12月30日に、上原とダルビッシュの特番を放映していた。

 ただ、個人的には、黒田の活躍はもっと評価されるべきではないかと考える(シアトル・マリナーズの岩隈久志もそうだけど)。確かに昨年は後半戦で、やや失速したけれども、それでもメジャーリーグで11年から13年まで3年連続で投球回が200を超えている。10年も196回投げており、4年連続2ケタ勝利を挙げている。この安定感は、38歳にして、世界でも屈指の先発投手と言っていい。

 ただ、先に触れたNHKの上原の番組(「僕はこうして頂点に立った」)も、確かに面白かった。番組内で、上原は現在使っている3種類のフォークについて、握りも実演しながら説明した。なかでも「普通の握りのフォーク」を説明する際、「人差し指を縫い目にかける」と言ったのが印象深い。日本の教科書的に言えば、通常フォークの握りでは指は縫い目にかけない。これはアメリカのボールがツルツルで滑ることに対応するための工夫なのだそうだ。

 ちなみに「黒田本」(と略すことにする)で紹介されているフォークの握りの写真は、中指も人差し指も縫い目にかけていないようだ。ただし、自分のフォークは「まだ人に教えられるようなレベルにない」と力説している。

 フィルダーへの初球の謎

 興味深いのは、ボールやマウンドの違いについての考え方である。黒田はセオリーに反した配球で成功した場面を紹介した後、<(たとえセオリーに反していても抑えられる可能性が高いと思えば選択していいのであって=引用者補足)それは、よく言われるマウンドの硬さや、ボールの違いなどに適応することより、ずっと大事なこと>と書く。この、いわば「反骨の覚悟」がいい。

 上原の番組では、リーグチャンピオンシップで当たったデトロイト・タイガースとの試合が取り上げられていた。第3戦、1−0とレッドソックスリードで迎えた8回裏、タイガースの攻撃。1死一、三塁の大ピンチで迎える打者は3番ミゲル・カブレラ、4番プリンス・フィルダー。絶体絶命である。しかも、ここまで両者は1勝1敗。あきらかに、シリーズの分水嶺となるシーンである。

 まず、セットアッパーの田澤純一が12年の三冠王カブレラを、渾身のストレートで三振に取る。8回2死一、三塁、試合終了まであと4アウトの状況で、ジョン・ファレル監督はクローザー・上原をコールする。この試合、私も固唾を飲んで見守った記憶がある。上原の13年の最大のシーンといってもいい。相手は当たったらホームランのフィルダーである。さて、どう投げたか(フィルダーは左打者)。

?外角高目 ストレート 143キロ ファウル
?外角低目 ストレート 143キロ 空振り
?外角低目 フォーク 空振り三振!

 お見事、三球三振、というしかない。ただ、このシーン、どうしても知りたいことがある(NHKのインタビュアー田口壮さんは聞いてくれなかったけれども)。初球、143キロの外角高目のストレートは、なぜ打たれなかったのか。あるいは、打たれない、というどのような根拠があったのだろうか。

 メジャーリーグの中では、上原のストレートは球速が乏しい。普通、フィルダーのような典型的なパワーヒッターに高目にいけば、ホームランの可能性も高いだろう。しかし、結果はファウルだった。おそらくこの勝負は、このファウルで決まった。あとは低目に投げて、さらに同じ低目に落として空振り。それは、わかるような気がする。

 しかし、初球は危険ではないのか。あえて説明すれば、上原のストレートには伸びがある、ということなのだろう。だから、フィルダーはボールの下を叩いてファウルにしてしまった。伸びるストレートとフォークの組み合わせ、それこそがクローザー上原の真骨頂である、と一応は納得しておくことにする。

 さらに、上原の言葉からヒントを探すとすれば、「僕は直感力は間違いなくあると思います」と言っていた。1球投げれば、次を振ってくるかどうか、直感が働くという。注意したいのは、ここで言う「直感」とは、けっして神秘的な力のことではないだろうということだ。これまでの投手人生で積み上げてきた洞察の蓄積が、瞬時の判断をもたらすのだろう。とすれば、あの初球も、彼の無意識的な洞察の蓄積が投げさせた、ということになる。ただ、正直に言えば、それでも疑問はわだかまったままなのだが。

 失投か必然のボールか

 思い出すのは、昨年の日本シリーズ第2戦、6回表の巨人の攻撃だ。(当時)東北楽天・田中将大を2死満塁と攻めて、打席にはホセ・ロペスのシーン(前々回、当欄で触れました)。結果は最後に見事なストレートがインコースに決まってロペスは三振する。しかし、5球目のスプリットは甘く中に入ったように見えた。あれは日本野球だから打たれなかったのであって、メジャーでは打たれるのか。それとも、メジャーの強打者も打てないのか。上原の初球と同じような解けない疑問を、いまだに抱えている。

 黒田はこう書いている。
<失投はたくさんあります。けれど、それを失投に見せないようにすることで、打たれなくすることはできるのです。>
 上原と田中の2球は果たして失投なのか、それとも根拠のある、狙い通りの必然のボールだったのか。今のところ真相を知るすべはない。

 黒田はメジャー移籍を目指す田中についてコメントを求められて、<こっちに来て投げてみないと分からない。ボールとかマウンドとか、人によって適応しなければならない部分も違う>(「スポーツニッポン」1月9日付)と答えたという。田中に対する過剰なまでの期待が高まる中で、これが最も冷静的確な意見だと思う。

 自らのメジャー移籍について大いに悩み、一度は広島残留を決めた時の会見をご記憶だろうか。どうして各メディアはこれを全文掲載しないのか、と思うくらい深い言葉の連続だった。それは、彼が自分自身で考え続けた末の言葉であるがゆえの深さだった。私など次期広島市長でいいのではないかと思ったほどだ。

 黒田博樹と上原浩治。先発とクローザーと道は分かれても、この2人の38歳の言葉には、自分で考え続ける強さが宿っている。

上田哲之(うえだてつゆき)プロフィール
1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者
◎バックナンバーはこちらから