取材とは、題材との格闘である。
 強靱な肉体を持ち、尽きることのない力を持つ相手と対峙することは快感である。こちらも負けじと持てる全ての力を出して対抗する――。
 時に、格上の相手とぶつかることもある。そうした取材をしているとき、指を高みに伸ばし登っていくような気になるものだ。
(写真:アベランジェとの二度目の取材の後。このときは機嫌を直している)
 突然の取材許可

 2006年に上梓した『W杯30年戦争』(新潮社)は、そうした本だった。
この本の主人公は2人いる。電通のサッカービジネスの中心人物だった高橋治之氏とブラジル人のジョアン・アベランジェ前FIFA(国際サッカー連盟)会長である。

 取材は、95年1月、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロでアベランジェに話を聞いたことから始まった。この時、日本と韓国はW杯招致を巡って激しいつばぜり合いをしていた。サッカー界に強い影響力を持つアベランジェの意向はW杯開催地に大きな影響を及ぼすと言われていた。どうしても会ってみたい男だった。

 たまたまこの時期、ぼくはジーコの取材でブラジルを訪れていた。断られるのを承知で、アベランジェの秘書に取材をしたいという伝言を託しておいたのだ。
 すると秘書から「1分間という条件で取材を受ける」という連絡があった。今からすぐに事務所に来いという。リオの海岸沿いのホテルから車を飛ばして旧市街まで、30度を超える蒸し暑い空気の中を走った――。

 古いビルの一室で会った彼は饒舌だった。取材は1分では終わらなかった。内容は大したものはなかった。ただ、彼がいかにサッカーを愛しているのか、日本がW杯開催地に適しているのかというありふれた話だった。それでも、ぼくはアベランジェに会えたというだけで満足していた。

 帰国すると、日本のW杯招致委員会から「アベランジェ取材の内容を教えて欲しい」という電話が入った。アベランジェがわざわざ日本の招致委に取材を受けたと連絡を入れていたのだ。アベランジェが日本開催を支持しているというメッセージを招致委に伝えるために、ぼくは使われたのだ。

 当時、ぼくはまだ20代半ばだった。この仕事は自分の手に余る、というのが正直な感想だった。サッカーは巨額の金が動くビジネスとなっていた。その得体の知れない深い世界を覗いた気がした。

 アベランジェを怒らせた質問

 今も昔もサッカービジネスの主たる舞台は欧州である。90年代の日本の報道機関は世界のサッカー界の動きを追い切れていなかった。そして、今のようにインターネットで世界各国の記事を読むことも不可能だった。ぼくは国外の新聞、雑誌などを取り寄せるしかなかった。

 ただ、日本にも取材の糸口はあった。

 アベランジェが74年にFIFAの会長になり、W杯の商業化が一気に進んだ。この商業化に噛んでいたのが、日本の広告代理店の電通だった。英文、ポルトガル語の記事には「DENTSU」という単語が出ることもあった。その電通で鍵を握るのは「タカハシ」という男だった。タカハシにきちんと取材できれば、この一点においては欧州のジャーナリストを先んじることが出来るはずだった。

 ぼくは02年W杯の前後から、FIFAに加えて、電通を取材するようになった。
 アベランジェにも再び会って話を聞くことができた。もうメッセンジャーとして使われる気はなかった。彼に関する資料を調べ上げて、向き合うことにした。

 今も同じだが、ぼくはポルトガル語を理解することはできるが、大切な取材では必ず通訳をつける。取材では特に聞き方が大切だ。不自由な質問だとこちらの意図が取材対象者に伝わらないこともある。ぼくたちにとって大切なのは、語学が出来ることではなく、きちんと話を聞くことなのだ。

 アベランジェに聞きたいことは沢山あった。
 94年のFIFA会長選挙で、事務局長だったゼップ・ブラッターは、アベランジェに秘密で立候補を試みている。いわば裏切りだ。アベランジェは人の裏切りを許さない種類の男だった。ところが、ブラッターは一度組織の中枢から閉め出されたものの、その後もアベランジェを支え続け、FIFA会長となった。

 当時のことを訊ねると、アベランジェは質問とは関係ない話を延々と続けた。
 ぼくは角度を変えてもう一度訊ねた。すると通訳の日系人は「もうこれ以上、怒らせない方がいいですよ」と囁いた。 

 アベランジェは不愉快な取材者に対しては、怒り、席を立つと聞かされていた。通訳はアベランジェの雰囲気に気圧されていた。仕方がなく、ぼくは通訳を通さずポルトガル語で質問することにした。するとアベランジェは身体の向きを変えて、ぼくではなく、通訳に向かって話し始めた――。

 ある男に会えなかった後悔

 そんな体験もしながら、ブラジルの他、ドイツ、イタリア、スイス、スウェーデンと世界を駆け回って取材し『W杯ビジネス30年戦争』を書き上げた。最後は新潮社に隣接する旅館に泊まり込み、原稿を仕上げた。校了紙を担当編集者へ渡したとき、ぼくはふらふらになっていた。
(写真:FIFA本部のあるスイスのチューリッヒへも訪れた)

 書き上げた満足感はなかった。もやもやした気分だった。題材との格闘に負けなかったが、勝てたという実感もなかった。

 心残りの一つは、ある人物に話を聞けなかったことだ。

 取材の中でその男にまつわる話は何度も出ていた。
<アベランジェの金庫番>
<ブラジルと世界のサッカーの闇を知る男>
<世界で最初のサッカー代理人>

 男の名前はエリアス・ザクーと言った。ブラジルの古いジャーナリストにザクーに話を聞けないかと相談すると「無理だよ」と首を振った。ザクーは人前に出るのを嫌い、全く取材を受けていなかったのだ。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち—巨大サッカービジネスの闇—』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)。最新刊は『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)。早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』『実践スポーツジャーナリズム演習』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。
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