英語が話せなくて買い物に不自由した」
 このようなことは海外旅行などでは珍しくない経験だが、日本国内でもこんな経験ができる場所、いや、してしまう場所がある。噂には聞いていたが、実際に行ってみると驚くべき外国人率の高さ。道行く人はもちろん、英語のみの看板、建築物の雰囲気……まるで海外に来ている錯覚に陥るほどだ。そう、ここ「Niseko」(北海道倶知安町、ニセコ町)はオーストラリア人を中心とした外国人の一大リゾート地と化している。
(写真:街の標示も英語ばかりで……)
 従来から雪質の良さでは知られていたニセコ。そこに目を付けたのがアウトドア好きのオーストラリア人だった。バイタリティ溢れる人たちが 10年程前から遊びに行くようになり、そのうち友人たちを連れて行くようになり、住みつくようになった。さらに、自国から来る人たち向けにビジネスをスタートし、海外の資本を呼び込むなど、… あれよあれよという間に、ニセコ村外国人移住区が生まれたというのだ。

 なぜニセコだったのか。いくつかの理由があったようだが整理してみると、「雪が良かった」「アクセスが良かった」「地元の受け入れが良かった」「夏の気候が良かった」「自然環境が良かった」というところになるようだ。

 雪質がいいのは地理的、気候的な条件が整っていたおかげだ。近年はカナダからも「自国よりも雪がいい」と訪れる人が増えてきているそうだ。確かに重くない、軽すぎないパウダースノーはウインタースポーツをやる者には堪らない。そしてアクセスの良さだ。これも重要な要素で、オーストラリアからの直行便がある千歳空港からそれほど遠くないことが功を奏した。さらに地元の態勢が、外国人に対して否定的でなく、むしろ役場に外国人対応を導入したりするフレキシブルさを持っていた。観光収入が下がっている道内の町の中でも、その寛容さは際立っていたと言える。夏場の気候や環境も大切で「夏のニセコがあるから冬も我慢できるんだ」というアウトドア好きなオーストラリア人もいるくらいだ。つまりウインタースポーツだけでなく、夏場の心地良い気候や、山、川に恵まれた自然の中で様々なアウトドア・アクティビリティが楽しめるというのも大きな魅力になっている。

 しかし、これだけ一度に異文化の人が沢山入ってくると当然、様々な摩擦が起こる。生活習慣が違うことが原因で、細々と問題もあったらしい。しかし、それも受け入れ側が要領を得てくると徐々に減ってくる。もちろんゼロにはらないが、お互いの努力で歩み寄れるのだろう。外国人タウンはすっかり倶知安町、ニセコ町の顔になっている。

 変化したのは街だけではなく、スキー場も変化した。案内看板や放送などはもちろんバイリンガル対応。もちろんスタッフにも英語が求められる。そういえば、他のスキー場でよく見かける、地元のおじさん、おばさんといったリフトスタッフを見ることはほとんどなく、若いスタッフばかりである。聞けば英語対応を求められた結果、年配者の従事者が減っているのだとか。そんなところにも影響が出てきてしまうのだ。
(写真:メニュー看板は英語のみというのが多い)

 そしてもっとも他のスキー場と違うのがオフピステの多さだ。オフピステとは整備されたバーン以外のところ、つまり整備が入っていない林の中などのこと。通常、日本のスキー場では事故防止の観点からオフピステは滑走禁止にするところが多く、正式な滑走コースにするなどとは考えられないことだ。しかし、ここでは「ニセコルール」という地域の公式ルールにもとづいて許可しているオフピステが多く、パウダースノーを思う存分楽しめる。まさにニセコの魅力を最大限に引き出すことだと思うのだが、よくこんな思い切った施策を講じられたものだ。

 実はこれも外国人のリクエストの多さから変わっていったこと。日本のルールに納得できない彼らが、リクエストしたからこそできたことなのだ。これが日本人同志だったら、「滑らせろ!」「危険だからダメ!」の平行線だっただろう。だが、しがらみも何もない、押しの強い外国人と、外国人に弱い日本人という構図がそれを打ち破った。ある意味これは「スキー場の外圧による変化」と言えるだろう。その結果、日本人にとっても楽しい、オフピステ天国ができ上がったのである。

 外圧によって変えられるというとイメージは良くないが、ニセコの場合はそれで既成概念を打ち破ったおかげで、スキー場の可能性を引き出してくれたという良い方への転換となった。もし、外圧がなければ一般のスキー場のような規則に縛られ、こんなにパウダースノーを求めて世界中から集まってくるようなスキー場にはならなかっただろう。そう考えると、ニセコの場合には変化のきっかけとして、この「外圧」は必要だったといえよう。

 そしてこれはスキー場だけの話ではない。日本の常識は良くも悪くも独特のものになっているケースが多い。“ガラパゴス”なんてと言われるゆえんだ。それを打ち破って変わるときには、内側からでは難しく、ときに外圧のような荒療治が必要なこともある。スポーツ、文化、経済、どれにも当てはまることではないだろうか。時に、外圧で刺激を受ける。これがより磨きをかけることにもなるようだ。

 言語も、食べ物も、建物も劇的な変化を遂げたこの街は、結果として地場産業にも新しい息吹を吹き込んだ。変化がすべて正しいというつもりはないが、新しい可能性を示すひとつの形であることは間違いない。
 英語が飛び交う露天風呂に浸かりながら、不思議な気分で暖まった。

白戸太朗(しらと・たろう)プロフィール
 スポーツナビゲーター&プロトライアスリート。日本人として最初にトライアスロンワールドカップを転戦し、その後はアイアンマン(ロングディスタンス)へ転向、息の長い活動を続ける。近年はアドベンチャーレースへも積極的に参加、世界中を転戦していた。スカイパーフェクTV(J Sports)のレギュラーキャスターをつとめるなど、スポーツを多角的に説くナビゲータとして活躍中。08年11月、トライアスロンを国内に普及、発展させていくための新会社「株式会社アスロニア」の代表取締役に就任。昨年1月に石田淳氏との共著で『挫けない力 逆境に負けないセルフマネジメント術』(清流出版)を出版。
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