カズこと三浦知良に初めてインタビューしたのは“キング”・ペレの出身クラブである名門サントスFCとプロ契約を交わした直後のことだ。ブラジルに渡って4年目、カズはまだ19歳だった。
 1986年の前半といえば、前年のプラザ合意により、バブルの足音が近付いていた頃である。4月には男女雇用機会均等法が施行、5月にはチャールズ英皇太子とダイアナ妃が来日、6月にはアルゼンチンが西ドイツを破ってメキシコW杯を制している。主役はカズが憧れていたディエゴ・マラドーナだった。

 手元に当時の取材ノートがある。あらためて読み返してみて、精神面の早成ぶりに驚く。
「本はよく読んでいますね。昔はひと月に1冊くらいだったのが今は最低でも5冊は読みます。(ブラジルは)バスの移動だけで25時間くらいかかることがある。そんな時は読書をしてサッカー以外の知識を身に付ける。お気に入りの作家は北方謙三と赤川次郎です」「よく15、16歳の少年から“ブラジルに行きたい”という相談を受けます。僕はまず“やめろ”と言います。心配なのはサッカーのことより私生活。これに悩み始めるとサッカーまでダメになる。それでも来たい人間は来ればいい。僕がそうでしたから」

 話はJSL(日本サッカーリーグ)の改革にも及んだ。「これは個人的な意見ですが、22試合制のリーグ戦が終わった後、上位6チーム、下位6チームでリーグ戦をやればいい。試合数が増えれば若手にもチャンスが増える。今の試合数では実戦の中で経験を積んでいくことができない。僕は(ブラジルで)2カ月半で12試合やった経験があります」

 カズの存在なくしてJリーグの成功はなかった。Jリーグの成功なくして代表の成長はなかった。W杯出場こそならなかったものの、代表の価値を高めたのも、また彼である。フランスW杯を戦う代表メンバーから漏れた際には「魂は置いてきた」との名言を残した。

 そのカズがJFAアンバサダーとして渡伯する。リハビリのためトレーナーを帯同させるのは、現役選手としての、せめてもの矜持か。ブラジルからスタートしたプロサッカー選手としてのカズの個人史は、日本サッカーの近現代史に、そのまま重なる。

<この原稿は14年6月11日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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