良薬は、苦い。それはわかる。ならば、苦いものは、良薬なのだろうか。いまだかつて味わったことがないほど苦い薬は、空前絶後の効果が期待できる薬なのだろうか――。
 初めてセルジオ越後さんにお目にかかった20数年前、どうしても聞きたいことがあった。74年7月3日、クライフが宙を飛んだあの試合を、越後さんはどう見たのか。
「頭真っ白になったね。オランダなんて国、聞いたこともなかったし。あれでサッカー観が変わったブラジル人、多かったと思うよ」

 10年ほど前には当事者に話を聞く機会もあった。キャプテンマークを巻いていた男は、敗因の一つに油断があったと振り返った。
「俺はビデオを取り寄せていたから、彼らがどんなサッカーをやってくるのか知っていた。でも、それは俺だけだった。オランダとか言う国のサッカーに興味を持つ奴なんて、一人もいなかった」

 そう話すリベリーノさんの表情には、いまだ消えない悔しさといらだちの色が浮かんでいた。

 当時のブラジル人にとって、クライフを擁したオランダに完敗した74年W杯は、途方もなく苦い思い出として刻まれた。そして、あまりにも強烈だった苦みは、その後のブラジルを迷走させた。

 78年大会では、かつてないほどにフィジカルを重視したコウチーニョ監督が指揮を執った。結果も内容もパッとしないとなると、今度はブラジルの良さを出そうという方向に再び舵を戻した。だが、内容は素晴らしかったものの、結果はさらに悪化した。90年大会からは再び手堅いサッカーにシフトし、以来、ブラジルのサッカーが勝つことはあっても、内容で世界を楽しませる回数はどんどんと減っていった。

 そんな中で起きた、あの惨劇である。74年のオランダ戦で許された「油断」という言い訳さえも使えない、最大にして最悪の大敗である。74年以降のブラジルが陥った以上の迷走が始まることは十分に予想ができた。

 そんな中、新監督がドゥンガに決まった。

 4年前、彼は退屈なサッカーの象徴とされていた。おそらくは二度と代表監督になる可能性はあるまい。そう思わざるをえないぐらい、メディアやファンからも嫌われていた。

 そんな男が、再び代表監督の座についた。これはつまり、常に勝利とともに内容も求めてきたブラジル人が、内容に対する執着を放り捨て、とにかく結果を求めるようになったことの証明でもある。1―7の傷は、4年前の反感をすべて消し去るほどに深かった。

 あの惨劇は、ブラジルにとって最良の薬となるのか。それとも単なる猛毒で終わるのか。いまのところ、見えてくるのは副作用ばかりである。

<この原稿は14年7月24日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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