それが自分の生き方なので、としか言いようがないが、茫然と野球を眺めている。
 今日もまた、ニューヨーク・ヤンキースのジョー・ジラルディ監督が、ベンチを出てトコトコ小走りに審判の元へ向かう。「チャレンジ」を要求するのである。メジャーリーグが今季から取り入れたビデオ判定のシステム。
 例えば、9月4日のボストン・レッドソックス戦だっただろうか。もはや記憶があいまいだが、デレク・ジーターの内野ゴロをアウトと判定されて、「チャレンジ」。たぶんセーフだな、と思っていたら、判定が出る前に球場が湧いている。アナウンサー氏によると、球場に映し出されたリプレーで明らかにセーフに見えたらしい。やっぱり判定も覆って内野安打に。満塁だったので、ジーターは打点1を稼いだ。なんだかなぁ。野球のプレーをいわば0.1秒、0.01秒の単位まで切り刻んで解析する、デジタルの時代といえばそうなのだろうけれど……。

 9月2日の夜、テレビのスポーツニュースを見ていたら、横浜DeNAの中畑清監督が激怒して、帽子をグラウンドに投げつけ、退場処分をくらっていた。横浜−阪神戦の9回裏、3−2と横浜リードで迎えた阪神の攻撃。1死満塁となって、阪神・今成亮太は横浜・三上朋也からレフト前タイムリーを放つ。二塁走者マット・マートンまで一気に本塁突入してセーフ。阪神、逆転サヨナラ勝ち。この判定に対して中畑監督は、アウトだと激昂したわけだ。少なくとも、見た目で常識的に判定すればアウトである。それが野球の判定の共通感覚というものだろう。しかし、吉本文弘球審は、マートンの足が、捕手の黒羽根利規のブロックをかいくぐって入った、と判定した。審判がそう判定したらセーフである。少なくとも、今のところ日本では。

 これ、おそらく、メジャー式にチャレンジしても、すなわち、様々な角度からの映像をリプレイして解析してみても、判然としないのではないだろうか。マートンの左足スパイクのかかととホームベースの距離と、黒羽根のミットの位置とマートンの上半身との距離と、そりゃ科学技術は素晴らしく進歩しているだろうけれども、だからといって、たかだか複数の映像でその先後を厳密に測れるとはとうてい思えない。だとすれば、中畑監督が激怒して退場になって終わる方が、よほど人間的なのではあるまいか。あれは、監督である以上、引き下がることはできない判定だろうから。ちなみに、ここで人間的というのは、スポーツを楽しむという文化を持った生き物らしさ、というほどの意味ですが。先のジラルディ監督のケースも、元広島監督マーティ・ブラウンを貸してあげて、一塁ベースでも投げてもらった方が、よほどすっきりする……というのは極論でしょうか。

 何もメジャーリーグだけに限らないのだが、野球のプレーをあまりに先進技術を駆使してデジタル的な情報に細分化するのは、日々茫然とこのスポーツを愛好する人間には、どうもなじめない。細分化がそれぞれ、個々の独立した情報と化してしまってはいないか。それが連続して、いわばアニメーションになってはじめてスポーツ、いや人間の営為でしょうに。

 解決の糸口は土壌づくりにある

 同じく9月2日、愛媛・済美高の上甲正典監督が亡くなった。67歳という若すぎる逝去には、ただご冥福を祈るのみである。その追悼記事を読んでいると、例の安楽智大投手の球数問題で、アメリカのメディアが愛媛まで取材に来たのだそうだ。<米メディアが松山市へ取材に訪れ、批判的に報道すると(上甲監督は)「高校野球は肉体の限界を気持ちで乗り切るものだ」と突っぱねた。>(「スポーツニッポン」9月3日付)とある。

 投手の球数と、肩、ヒジの故障の問題は、確かに重要で、しかも難しい。でも、これはあくまでも想像だが、「米メディア」は、安楽だからわざわざ四国まで取材に行ったのだろう。今夏の甲子園(全国高校野球選手権大会)では大阪桐蔭が優勝した。エース福島孝輔は、準決勝の敦賀気比戦で160球投げて完投し、翌日、三重との決勝でも118球で完投している。準決勝は15安打9失点とボコボコに打ち込まれながらの完投で、疲労は極限にまで達したはずである。それなのに決勝で彼が先発した時には、正直言ってびっくりしたし、心配にもなった。肩、ヒジは大丈夫なのだろうか?

 でも、多分、米メディアがこの件で大阪を訪れることはないだろう。なぜなら、安楽は将来(例えばFA権を得る9年後)、メジャー移籍も十分あり得るだけの素質にあふれているが、福島投手がそこまでの肉体的素質に恵まれているとは思えないから。何度か申し上げてきたように、メジャーリーグは日本の投手を消費しているのである。

 日本高校野球連盟では球数制限とか、延長のタイブレーク方式とか、投手酷使の弊害を解消するための方策が検討されているという。もちろん、投げ過ぎて故障して投手生命が奪われる、という悲劇はない方がいいに決まっている。だからといって、球数制限ですか。投球というものを、球数で切り分ける考え方自体が、投手という人間の営為となじまないと思いますがね。

 ましてやタイブレーク。延長になったら自動的にランナーを置いた状況を作って、そこからプレーボールをかける、という仕組みだが、これはもはや、9回までのベースボールとは別のスポーツである。デジタルな情報処理にルールを委ねる方策は、その発想からして安易というほかない。ここは、過度な投げ過ぎを避けるための、日本の野球文化の土壌を再構築するしかないのである。

 でもね。昨年の日本シリーズを思い出してほしい。東北楽天の田中将大(現ヤンキース)が第6戦で160球投げた翌日、第7戦の9回に登板して15球投げたことに、多くの日本の野球ファンは喜んだではないですか。スーパーヒーローとして、いわば国を挙げて賞賛したわけだから。それが、現在の日本野球の文化なのだというところから、考えねばならない。

 スローボールに表現されていた可能性

 さて、甲子園の話題を続けよう。茫然と眺めていて、一気に目が覚めた試合がある。8月14日の東海大四−九州国際大付戦である。もうおわかりですね。今夏の最大のヒーロー、東海大四の西嶋亮太投手である。一応、注釈しておけば、九州国際大付は、強力打線で全国に名を馳せる優勝候補の一角であった。これに1回戦で当たった東海大四のエースが、身長168センチの西嶋投手である。彼はテレビカメラが追い切れないほど高々と上空に放り投げる超スローカーブで、観る者の度肝を抜いた。

 ちょっと、振り返ってみる。4回裏。九州国際大付の攻撃は3番・古澤勝吾から。
?超スローボール ボール(まさに真上に放り上げるようなボールは、ゆっくりと、ど真ん中に構える捕手のミットに舞い降りた)
?アウトロー スライダー 空振り
?アウトロー ストレート 空振り
 やはり、超スローボールの効果か。外角低めについていけない。ただし、古澤もさすがプロ注目の打者と言われるだけのことはある。この後粘って、6球目のアウトローを、いい当たりのセンターフライ。

 続くは4番・清水優心。この人もプロ注目のスラッガーである。
?アウトロー スライダー ボール
?アウトロー ストレート ストライク
?中くらいの山なりのスローカーブ ボール
?アウトロー スライダー 空振り(やはりスローカーブを見せられて、力むのだろう)
?アウトロー ストレート 見逃し三振!

 さらに次の打席。6回裏。3番・古澤には初球、2球目と、2球連続して、天高く投げ上げた超スローボール(ボール)。3球目、インローのストレートは空振り(力むんですな、やはり)。4球目、アウトローのスライダー(ボール)の後、5球目のストレートは外角高めの明らかな(西嶋投手には珍しい)失投で、二塁打。続く4番・清水には、初球、インハイのストレートを完璧にとらえられて、レフトオーバーのタイムリー二塁打。1失点。これは、清水がうまく打った。しかし、やはり、観る者は彼の超スローボールに目を奪われたのである。まさか、という可能性をマウンドで表現してくれたのだから。

 もうひとつ言いそえれば、彼はスローボールを3種類、用意していた。いわゆる普通に山なりに落ちるスローカーブといえる軌道。「小山型」としておきましょうか。ここまでは投げる投手はいる。次いで、上空2メートルくらいの山型の軌道をなすスローカーブ。「中山型」ですね。で、三つめが、7〜8メートルは投げ上げているのではないかという、超超スローボール。「大山型」としましょう。4回に清水に投げたのは「中山型」だった。4回の古澤への初球と6回の2球連続は、「大山型」である。忘れてならないのは、この「秘球」を、彼はプロ注目の3、4番打者に集中して放っていることである(9回は、疲れたのか勝ちを意識したのか、「中山型」を連発していたけれども)。

 168センチの小兵、ストレートはだいたい135キロ、スライダーは121〜123キロという投手が、プロ注目の大型スラッガーをねじ伏せようとする時、この発想を表現できたことが素晴らしい。ちなみに超スローボールはすべてボールと判定された(「大山型」と「中山型」は)。しかし、4回裏、古澤への初球の超スローボール大山型はストライクだったと思う。審判もわかったはずだ。うっと一瞬間があってボールとコールしていた。あのボールをストライクとコールする勇気、あるいはコールできるような、審判を取りまく日本野球の文化土壌がなかったのである。

 西嶋投手に見た投手としての生き様

 この超スローボールは、ご存知のように様々な反響を呼んだ。ここで、そのいちいちについて論じることはしない。ただひとつの事実として、2回戦の山形中央戦の1回表、西嶋投手がピッチング練習をしている時、NHKのアナウンサーはこうおっしゃった。ビデオを見直して、正確に再現します。
「(西嶋投手は)話題がスローボールになってしまうんですが、それがなくても抑えられるような感じにも見えたんですがね」

 甲子園こそは日本野球の土台である。その野球文化は、当然、メディアによっても醸成される。この発言は、日本野球の土台の開催にたずさわる大メディアの「大人の常識」の表明ととっても、大きく外れてはいまい。「それがなくても抑えられる」かもしれないのに、と考えることは、多様な、あるいは異端の可能性を育てることを抑圧するのではあるまいか。それこそが、大人ならぬ子どもの、あるいは青年の特権のはずなのに。

 この件でおもしろかったのは、投手はおおむねスローボール擁護派だったことである。代表はダルビッシュ有(テキサス・レンジャース)だが、ときおり似た軌道のボールを繰り出す三浦大輔(横浜)も、ぶっつけ本番で投げたボールではない、という主旨のコメントをしていた。何よりも中継の解説だったアマチュア球界のかつての名投手・杉浦正則さんの言葉がいい。
「投球フォームからああいうボールを投げるというのは、やはり技術が必要になってきますから、非常に難しいボールだと思いますね」
杉浦さんの解説の言葉は、いつも一流投手ゆえの含蓄があって、味わい深い。

 多くの人々の「野球を観る」という行為もまた、日本野球という文化を担い、更新する原動力になっていると言っていい。プレーを目撃するとは、プレーに目を瞠るということである。この一点において、西嶋投手は、投手とは何かということをマウンドで表現しえた、今夏最高のプレーヤーだったと言いたい。

 もう少しだけ言い募っておこう。彼の超スローボールという戦略、およびそれを支える正確無比なコントロール(このことも特筆しておくべきだろう)には、デジタルな情報の影がない。例えば、いくらアメリカ式のセイバーメトリクスとか、投球のデータベースとかを駆使しても、結論としてあのボールが出てくることはないだろう。生命線であるスライダーとストレートのコントロールを磨く練習を積んだ後、さらに3種類の超スローボールの練習に取り組むエース。その姿を想像するだに、人間が投手として生きる苦悩と快感を、われわれは観る者でありながら、ふたつながら味わうことができる。

 球数制限などの機械的な発想ではなく、「投球するとはどういうことなのか」という西嶋投手的な洞察から発してこそ、日本野球としての、問題解決の糸口が見えてくるのではないだろうか。

上田哲之(うえだてつゆき)プロフィール
1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者。
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