二宮: 世界柔道を改めて振り返ると、初戦の2回戦、次の3回戦は技のポイントがとれず、指導の差での勝ち上がり。苦戦を強いられました。
宇高: 相手と組んでいて負ける気はしませんでした。焦りはなかったのですが、なかなか技がかからなくて苦労しましたね。
 高校時代から得意は大外刈り

二宮: 準々決勝を得意の大外刈りで一本勝ち。ここから波に乗れたのでは?
宇高: あそこで勝ってリズムが出てきましたね。大外刈りが行けそうな感覚があったので、うまく決まりました。

二宮: 続く準決勝の相手はロンドン五輪銅メダリストのオトーヌ・パビア(フランス)。ここでも開始1分過ぎに大外刈りで相手を倒し、有効を奪いました。
宇高: 準決勝の大外刈りも、一本が獲れるタイミングでした。ただ、相手は長身で反応が良かったので、いつもだったら、もっと踏み込んで投げ切れていたところが、しっかりとかからなかった。有効になったのは残念でしたけど、ポイントを獲れたことは良かったです。

二宮: 大外刈りを得意技としていますが、それはいつ頃から?
宇高: 高校時代から、大外刈り一本です。昔から腕力が強い方だったので、高校時代には奥襟を持つスタイルになっていました。その流れで自然と大外刈りをやるようになりましたね。逆に奥襟を持たないと技が仕掛けられないので、その点は今後の課題です。

二宮: 有効でリードした後、パビアの反撃で守勢を余儀なくされました。
宇高: ルール変更で試合時間が4分に短縮されていたことが味方しました。(従来通り)5分だったら、危なかったと思います。5分だと最後は体力的にもきつくなるので、逃げ切ろうとしても、いずれ捕まってしまいます。

二宮: それでもリードしてからの3分弱は長く感じられたでしょう?
宇高: 長かったですね。相手もどんどん前に出てくるので、しのぐのに必死でした。逃げきろうと考えたらダメなので、こちらからも攻めたかったのですが、無理に技を仕掛けると返されてしまう……。

二宮: 今回は4年前の世界柔道で負けた時の黒帯をずっと締めていたとか。
宇高: 練習の時はずっと着けていましたね。悔しさを忘れないようにしたかったので、今回の世界柔道も試合では使えなくても、最後まで練習では締めていました。逆に今回の世界柔道の帯はしまっておいて、試合の時だけ使うようにするつもりです。

二宮: ここで生まれた頃からの話を。出身は西条市です。柔道はいつから始めたのですか。
宇高: 6歳です。父が地元の小さな少年柔道クラブの指導をしていて。気づいたら始めていました。

二宮: 高校は同じ愛媛県でも親元を離れ、宇和島東に進みます。
宇高: 当時の愛媛では宇和島東が女子柔道の一番の強豪校でした。同じ階級で1学年上の宮本樹理先輩に誘ってもらったことも決め手になりました。

二宮: 高校の時から、いずれは世界で勝つことを意識していたのでしょうか。
宇高: いえ、全く。県や四国のレベルでは勝てても、全国ではベスト8が最高。全国レベルではなかったので、世界を目指せるとは思っていなかったです。

 大きかった毛利コーチとの出会い

二宮: ただ、その後も柔道を続けるにあたって、高校時代に出会った恩師の影響が大きかったとか。
宇高: 毛利泰三先生ですね。毛利先生は宇和島東のOBで天理大では野村忠宏さんのひとつ下で柔道をやっていた方です。私が高校に入学した時に、故郷の三間(宇和島市)に戻られてコーチとして教えていただきました。毛利先生に指導していただいて、ものすごく柔道が楽しく感じたんです。もし、毛利先生との出会いがなかったら、今まで柔道はしていなかったでしょうね。

二宮: その後、愛媛女子短期大(現IPU環太平洋大短大)に進んでからも毛利先生の指導を受けました。その結果、2年時には全日本ジュニアを制覇。初の国際舞台となった福岡国際も優勝を収めます。
宇高: 全日本ジュニアでは毛利先生が泊まったホテルの部屋番号が326号室でした。実は私は3月6日生まれで、36番をラッキーナンバーにしていたんです。先生のラッキーナンバーは2番。ちょうど、その2つが組み合わさった番号だったので、「これはいいことがある」と(笑)。そしたら、本当に優勝しました。それからは“326”をラッキーナンバーにして、帯やサインにも入れる(写真)ようにしています。

二宮: 毛利先生には今でも指導を受けることがあるそうですね。
宇高: 大会前にはゲン担ぎのように必ず会って稽古をつけてもらいますし、試合も全部、観に来てもらっています。世界柔道もロシアまで来てもらいました。2〜3日、休みができると、毛利先生がやっている三間の道場に帰りますね。

二宮: 世界チャンピオンがやってきたら、三間の子どもたちはビックリするでしょうね。
宇高: いや、よく顔を出すので、もう普通ですね(笑)。小さい頃から知っている子が、もう高校を卒業するくらい長い付き合いなので、皆からは「ナエ」とか「ナエちゃん」と呼ばれています。夜も先生の家に泊めてもらって、先生の子どもたちと一緒にベッドで寝る。そうやって接してくれる方が気持ちもラクです。

二宮: でも、間違いなく宇高さんの存在は子どもたちの目標になっているはずですよ。
宇高: この前、三間に帰ると、道場に大きな垂れ幕を掲げてくれていました。県でトップの女の子や、将来有望な選手も出てきているので楽しみですね。道場自体は昔の給食センターに畳を敷いている状態なので、ゆくゆくは立派な設備を整えて恩返ししたい気持ちがあります。

二宮: では、愛媛に帰ることが気分転換につながっているわけですね。
宇高: そうですね。西条の実家と三間に帰ること、これが一番のリラックス法です。

二宮: 愛媛女子短大から帝京大に編入します。谷亮子さんを輩出した強豪ですから、練習は厳しかったのでは?
宇高: 練習も大変でしたし、何より部内の競争が激しかったんです。大会に出るには校内予選を勝ち抜かなくてはいけない。私たちは同じ階級に1年から4年まで11人メンバーがいました。それで1日に10試合とか予選をして、上位に入った2、3人だけが試合に出られるんです。

二宮: 同じ階級ではロンドン五輪金メダリストの松本薫選手は3学年下の後輩です。入学した頃の印象は?
宇高: 気が強くて、1年の時からレギュラーで大会に出ていました。当時からちょっと変わった雰囲気を持っていましたね。

(第3回につづく)
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宇高菜絵(うだか・なえ)プロフィール>
 1985年3月6日、愛媛県生まれ。コマツ所属。小学1年から柔道を始める。宇和島東高を経て愛媛女子短期大(現IPU環太平洋大短大)へ。2年時に福岡国際で女子57キロ級初優勝。帝京大に編入する。06年、09年と講道館杯を制覇。10年に全日本選抜体重別で優勝して同年の世界柔道に出場。13年のグランドスラム東京を制すると、14年は4月の体重別で2年ぶり3度目の優勝。3大会ぶりの出場となった8月の世界柔道で初の世界女王となった。身長161センチ、得意は大外刈。

(構成・写真/石田洋之)




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