プラットフォーム(競技を行う舞台)の上に存在するのは、選手とバーベルだけ――それがウエイトリフティングの世界だ。自身の体重の倍近いウエイトのバーベルを頭上まで引き上げ、成功のブザーを待つ。時間にして数秒ではあるが、選手はその数秒にすべてをかける。中央大学重量挙部の権田達也(3年)は、そんな競技の魅力に取りつかれたひとりだ。権田は新居浜工業高校時代にインターハイ、国民体育大会を制覇。進学した中央大では今年に入って全日本学生個人選手権、国体(長崎、成年56キロ級)で優勝するなど、日本屈指のリフターになりつつある。
 簡単にウエイトリフティングについて説明しておこう。競技する種目は2つあり、ひとつはバーベルを一気に頭上へ引き上げて立ち上がる「スナッチ」。もうひとつは第1動作(クリーン)でバーベルを肩の高さまで引き上げて立ち上がり、第2動作(ジャーク)で全身の反動を使って差し挙げる「クリーン&ジャーク」(略してジャークともいわれる)だ。最終順位は2種目のトータル重量で争われる。スナッチもしくはジャークのどちらかを3回連続で失敗すると失格となる。パワーだけではなく、バーベルを引き上げる瞬発力も重要となるなど、奥が深い競技だ。

 大学3年目を迎えた今年、権田は2つの全国大会(5月の全日本学生個人選手権、10月の長崎国体)を制するなど、順調なシーズンを送っているように映る。だが、本人いわく「前期の調子は最悪」だったという。

 109キロが自己ベスト記録のスナッチが、90キロ台のウエイトで失敗。ジャークでは自己ベストの136キロに遠く及ばない115キロを挙げられないこともあった。全日本学生個人選手権はスナッチ95キロ、ジャーク122キロのトータル217キロで優勝したものの、2位だった昨年の記録(223キロ)を下回っていた。

 しかし、長崎国体ではスナッチ102キロ(当時公式戦自己ベスト)、ジャーク130キロのトータル232キロ(当時公式戦自己ベスト)で優勝を果たした。権田はなぜ国体の前に調子を取り戻すことができたのか。

「夏に新居浜へ帰省した時、母校の石川洋平先生、真鍋和人さん(ロサンゼルス五輪男子52キロ級銅メダリスト)の指導を受けたことが大きかったですね」
 権田は復調のきっかけをこう明かした。帰省中は軽い重量に設定したバーベルを1セットで10回挙げるなどの練習を繰り返した。バーベルを引き出す時の姿勢や、挙げる時の軌道を確認するためである。また、練習をビデオカメラで撮影し、映像を見ながら石川らとフォーム修正に努めた。地元での“特訓”が功を奏し、大学に戻ると自己ベストに近い重量のバーベルを挙げられるようになった。

 また、地元に帰省したことで、メンタル面にも変化が表れた。
「帰省して石川先生や真鍋さんからサポートしてもらったことで、国体は“愛媛のために優勝しないといけない”と強く思うようになりました」

 権田は高校時代に全国大会を制覇したことで、その後は明確な目標を持てずにいたという。モチベーションの欠如が不調に陥った要因のひとつだったことは間違いないだろう。しかし、地元で周囲からの期待を改めて感じたことで、彼の中に“愛媛のために”というモチベーションが生まれた。

 実際、長崎国体では堂々の優勝を果たした。
「長崎国体では結果も出ましたし、何より愛媛のために優勝することができたので、大満足です」
 権田は笑顔でそう語った。心技が整っていたからこそ、長崎国体での好パフォーマンスにつながったのだ。

(第2回へつづく)

<権田達也(ごんだ・たつや)>
1994年1月23日、愛媛県新居浜市出身。中学校までバレーボールを続けていたが、新居浜工でウエイトリフティングを始める。高校1年の時に男子53キロ級で全国高校選抜に出場。高校3年の2011年には同級でインターハイ(スナッチ、ジャーク、トータル)、山口国体(少年=ジャーク、トータル)を制覇した。中央大進学後は14年に同56キロ級で全日本大学個人選手権(ジャーク、トータル)、長崎国体(成年=ジャーク、トータル)で優勝。同年11月の全日本インカレではスナッチ、ジャーク、トータルすべて公式自己ベストを叩きだして56キロ級を制した。公式自己ベストはスナッチ=105キロ、ジャーク=134キロ、トータル=239キロ。身長156センチ、体重57キロ。

(文・写真/鈴木友多)




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