ウエイトリフティングを始めて約1年後の2010年3月、権田達也は全国高校選抜大会に臨んだ。自身を「試合などで緊張してしまうタイプ」と分析する権田は、スナッチを3回連続で失敗し、失格してしまった。初の大舞台で極度の緊張に陥ったのだろう。ほろ苦い結果となったが、権田は意外にも「勝負できるかもしれない」と感じたという。ジャークで挙げた98キロが全体で5番目の記録だったのだ。1位の記録は122キロだったが、2位の105キロと権田の記録は7キロ差。スナッチを成功させていれば、表彰台を争う可能性があった。権田は記録を残すことはできなかったが、「全国レベルでも戦える」という自信を持ち帰った。
 高校2年になると、権田は「自分なりのコツをつかみ始めた」という。
「キャッチ(引き上げた後にバーベルを頭上で固定すること)のタイミングを早くしたり、引き出しのスピードをつけたり。そういったコツが自分の中で少しずつまとまり始めました。それでも力だけで挙げている感じでしたけどね(笑)」

 その年の6月、県大会を制した権田は、8月のインターハイ(沖縄)に出場し、スナッチ73キロ、ジャーク100キロをマークした。トータル173キロで9位に終わったものの、ジャークの記録は4番目。確実にレベルは上がっていた。

 当初、権田の目標は「高校3年間で全国2、3位になれればいい」というものだった。だがインターハイ後、権田は目標を「表彰台」から「日本一」に軌道修正した。そのきっかけは、石川からの期待だった。
「オマエには1番をとれる素質がある。俺がしっかり指導するから1番をとれ」
 実は石川はかねてから権田を奮起させるために「全国制覇を目指せ」と言い続けてきた。石川の言葉が、いつも以上に権田の胸に突き刺さった。

「石川先生がここまで言ってくれている。期待に応えるためにも、全国1位になりたい」
 師弟が一心同体となった瞬間だった。

 その後、権田は全国制覇に向けて厳しいトレーニングに取り組むようになった。放課後の練習に加え、彼は石川と朝練を行うようになった。朝練では体幹を鍛えるためにバーベルを背中に担いでの走り込みやジャンプ、バーベルを頭上に差し上げた状態でのウォーキングを繰り返した。石川は当時の権田の様子をこう振り返る。
「何度か泣いたこともあったのではないでしょうか。それくらい、つらい練習を科しましたからね。それでも権田は真摯に練習に取り組んでくれました。チャンピオンになろうという気持ちが伝わってきましたね」

 体幹トレーニングの効果はてき面だった。それまでバーベルを差し上げた時に見られていた体のぐらつきが少なくなったのだ。3年時のインターハイ前のベスト記録はスナッチ91キロ、ジャーク115キロ。権田は「この記録なら優勝できる」という自信を持って、高校最後のシーズンを送っていた。そして、彼は目標の全国制覇を成し遂げる。インターハイ(岩手)でスナッチ、ジャーク両方を制しての完全優勝。そして国民体育大会(山口)も制して、全国二冠を達成したのだ。

(第4回へつづく)

<権田達也(ごんだ・たつや)>
1994年1月23日、愛媛県新居浜市出身。中学校までバレーボールを続けていたが、新居浜工でウエイトリフティングを始める。高校1年の時に男子53キロ級で全国高校選抜に出場。高校3年の2011年には同級でインターハイ(スナッチ、ジャーク、トータル)、山口国体(少年=ジャーク、トータル)を制覇した。中央大進学後は14年に同56キロ級で全日本大学個人選手権(ジャーク、トータル)、長崎国体(成年=ジャーク、トータル)で優勝。同年11月の全日本インカレではスナッチ、ジャーク、トータルすべて公式自己ベストを叩きだして56キロ級を制した。公式自己ベストはスナッチ=105キロ、ジャーク=134キロ、トータル=239キロ。身長156センチ、体重57キロ。

(文・写真/鈴木友多)




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