最速157キロを誇る、東北楽天のドラフト1位ルーキー安樂智大の背番号が「20」に決まった。
 当初、本人は田中将大(ヤンキース)が2013年まで背負っていたエースナンバーの「18」を希望していたが、これは球団から却下された。


 安樂本人には「将来は20勝したい」「20年活躍したい」との目標がある。その思いを託すには、いい番号ではないか。

 さらに言えば、13年のシーズンに24勝をあげてチームを球団創設初の日本一に導き、若くしてレジェンドとなった田中の番号を背負うのは、いくら超高校級の逸材でも重過ぎる。

 というのも、背番号の重みに苦しめられたホープが、過去にはたくさんいるからだ。

 1965年から始まったドラフト会議で、一度だけ全球団が参加しなかった年がある。78年、巨人はドラフト会議前日、“空白の一日”を利用して江川卓と契約した。連盟が巨人の選手契約申請を却下したため、巨人は翌日のドラフト会議をボイコットしたのである。

 この年、広島は宮城・仙台育英高の大久保美智男という甲子園を沸かせた本格派投手を2位で指名した。1位で指名した社会人ナンバーワン左腕の木田勇が入団を拒否したため、球団の大久保への期待は高まり、前年まで主力選手の大下剛史が背負っていた「1」を用意した。

 結論から言えば、大久保に「1」は重過ぎた。1勝もあげられず、後に野手に転向したが成功しなかった。

 近年では松井秀喜から「55」を受け継いだ巨人の“ドラ1”ルーキー大田泰示の例が思い起こされる。伸び悩んだ大田は14年のシーズンから「44」に変更した。松井の呪縛から解き放たれたかったのかもしれない。

 安樂に話を戻そう。「20」という背番号は悪くない。監督退任後、シニアアドバイザーに就任した星野仙一が現役時代に背負っていた番号でもある。

「オレは期待しているぞ」
 との、星野の暗黙のメッセージのようにも受け取れる。

<この原稿は2014年10月6日号『週刊大衆』に掲載された原稿を一部再構成したものです>


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