専門誌で高校サッカーを担当していたころ、選手のニックネームを考えるのに夢中になっていた時期がある。
 一番有名になったのは、四日市中央工の左利きのエースにつけたものだったが、実は、彼のためにもう一つ考えていたコピーがあった。
“和製ラウドルップ”――。
 長身でありながら重心は低く、足元に吸いつくようなドリブルを見た時、当時デンマークで売り出し中だったラウドルップ兄弟の弟がダブってしまったのである。

 残念ながら、当時の日本では海外の選手の動画を見られることはほとんどなかった。当然、ほとんどの方にはまるでイメージの湧かないこのコピーはあっさり忘れ去られ、次善の策だった“レフティー・モンスター”という愛称が市民権を得ていくこととなった。

 さて、昔話をしたのは他でもない。今年の高校サッカーを見ていて愕然としたことがあったからである。
「ああ、この学校の監督はベップ時代のバルサが好きなんだろうな」「お、ここは明らかにドルトムントを意識したサッカーをやっているな」――あれ?(この感覚、20年前には断じてなかったものだ!!)

 傑出した個人にニックネームをつけようとしていた20年前のわたしは、しかし、断じてチームにニックネームをつけようとはしていなかった。そもそも、そんなことは考えてもいなかった。

 当然と言えば当然である。当時の日本では、W杯以外、生で世界のサッカーに接する機会がほとんどなかった。選手個人が有名な選手に憧れることがあっても、指揮する側がサッカーをイメージしてチーム作りすることは、ほぼ皆無に等しかった。

 ではあの当時、高校サッカーの監督たちが手本としたのはなんだったのか。

 強豪校だった。

 ゆえに、当時の高校サッカーには地方色がはっきりと表れていた。清水勢の台頭は静岡のサッカーをテクニカルに染め、国見や鹿児島実がリードした九州のサッカーは、技術を重んじつつもパワーを前面に押し出した。周辺にフォロワーが生まれたことで、強豪校のサッカーがその地域の色となっていった。

 いまは違う。

 当たり前のように海外のサッカーが観戦できるようになったことで、指導者たちは常に世界最先端のサッカーを見られるようになった。ことイメージ作りということに関して、地方のハンデはほぼゼロになったといっていい。その結果、以前であればサッカー不毛の地と見られていた地域からも、先進的なサッカーをやるチームが次々と現れてきた。

 たぶん、同じことは世界規模で起こる。

 今回なのか。それとも次回なのか。従来、アジアでは弱小にすぎなかった地域が、いずれ日本を驚かせる時がこよう。五輪予選の年、ふとそんなことを思った。

<この原稿は15年1月8日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
◎バックナンバーはこちらから