初めての記録は優勝だった。日本大学陸上競技部の宮内育大(大学院2年)が砲丸投に出合ったのは、中学3年の時だ。宮内は通っていた大杉中学校でソフトボール部に所属していた。2005年11月、宮内ら運動部の選手が地域で開催された陸上大会に参加する機会があった。そこで宮内は砲丸投に出場し、大会記録を出して優勝。彼は砲丸投という種目を選んだのは「たまたまでした」と振り返ったが、初めて砲丸を投げたという宮内の結果に周囲は驚いた。当時はまだ宮内自身に陸上を始める気持ちはなかった。だが、陸上大会での活躍は、彼を陸上の世界へと誘うきっかけとなった。
「岡村先生、ウチに化け物がおる」
 岡村幸文(追手前高校陸上部監督)は、教員ソフトボールチームの仲間で、大杉中ソフトボール部顧問の今井均からこう語りかけられた。今井によればその“化け物”は「ソフトボールよりも陸上をやらしたほうがおもしろい」という。「わかりました。じゃあ、1回、中学校へ行きますよ」と岡村は実際に、今井が推薦する人物に会いにいった。それが宮内だった。岡村は学生時代には十種競技の選手として鳴らし、大学卒業後はやり投げで日本選手権5位入賞の実績を持つ実力者。今井は、優れた指導者に宮内を預けて彼の潜在能力を開花させてやりたかったのだろう。

 宮内の身長183センチという中学3年生とは思えない体躯を見て、岡村は「規格外やな」と驚いた。特にソフトボールの練習で鍛え込んだ太ももなど、下半身の大きさに目が留まった。だが、岡村が感心したのは外見だけではなかった。
「礼儀正しくて、話をするにも人の目を見て会話できる誠実な好青年だな」
 岡村は彼の内面的な魅力も感じ取ったのだ。心身に優れた素材を備えている宮内を見て、岡村は「この子なら全国で勝負できるかもしれない」と思ったという。「トップレベルを目指すには体や技術だけではなく、メンタル面も重要」だと考えていたからだ。岡村はその場で「追手前高に来るなら、一緒に陸上をやらないか」と宮内を勧誘した。

 宮内は追手前高へ進学することは決めていたが、部活動ではソフトボールを続けようと考えていた。しかし、今井や岡村の薦めを受けて、入学直前までソフトボールと陸上のどちらを選ぶか悩んだ。その上で彼は陸上を選んだ。宮内は勧誘に来た岡村と話して「この人についていけば、いいことがあるんだろうな」と直感したのだという。こうして06年4月、宮内は自身の直感を信じ、追手前高陸上部でショットプッター(砲丸投選手)としてのキャリアをスタートさせた。

 恩師のアドバイスで乗り越えた壁

「陸上の知識がまるでなく、砲丸のルールも知りませんでした」
 入部当時をこう振り返った陸上競技素人の宮内に対し、周りの選手は経験者ばかりだった。またソフトボールは団体競技であったが、陸上は個人競技。中学時代とは全く違う環境に、宮内は「どういう練習をすればいいのか」と不安を抱いていた。だが、宮内はすぐ陸上部での活動に溶け込めた。追手前高陸上部は公式戦で個人のみならず、対校戦での総合優勝を目標に掲げていたからだ。
「団体競技から転向してきた僕にとって、総合優勝というスローガンがあったことは、やりやすい環境でした。ひとつひとつは個人種目なんですけど、チームとして練習しているようなかたちでしたからね。ウォーミングアップは全員で行いますし、種目別の練習に入った時も同じ種目の選手と一緒にメニューをこなしていました」

 砲丸投の練習では岡村の指導を受けながら、日々、記録を伸ばしていった。四国総体で9位となり、1年目でのインターハイ出場はならなかったものの、自分が成長していることが目に見えてわかった。しかし、9月に入って投てき距離が13メートル台に到達すると、パタリと記録が伸びなくなった。競技を始めてから半年が経とうとしていた。

 入部以降、岡村の技術的な指導を取り入れるだけで、距離が伸びていた。宮内は「もう、パニックでした」とは記録が伸びなくなった当初の心境をこう明かした。状況を打破しようとして普段の練習で20投程度だった投げ込みの数を、2〜3倍に増やす時もあった。だが、いくら投げても自己ベストを更新することができなかった。

 そんなある日、宮内は岡村から「ちょっと砲丸を投げるのをやめようか」と声をかけられた。そして、彼は走ったり、跳んだりという陸上の基本的な動きを繰り返すトレーニングや、女子選手と一緒に高跳びの練習をやるようになった。高跳びでは宮内曰く「女子の選手よりも、全く跳べなかった」という。なぜ、岡村は宮内にこれらのトレーニングを課したのか。宮内本人は「視野が狭まっていたからでしょう」と語り、次のように分析した。
「(記録が伸びなくなるまでは)ずっと砲丸投のための技術、体力などを追い求めていました。それらを向上させればどんどん記録が伸びると思っていたんです。でも、本当はそうではない全体をうまく使えないと砲丸を遠くには飛ばせません。走る速さだったり、バウンディング(足の接地時間を短くし、大きなストライドで弾むように進む動作)した時の強さを強化したりする必要があるなと。岡村先生は“もっと鍛えないといけない部分があるんだよ”と教えてくれたのだと思います」

 迎えた07年4月、宮内は高校2年になって初めて出場した大会で、14メートル35をマークした。あれだけ苦しんでいた時期が嘘であったかのように、彼はあっさりと14メートル台に自己記録を伸ばしたのだ。
「当時はガムシャラにやっていたので“なんで、壁を破れたんだろう?”と不思議でした。しかし、今となっては様々な部分を強化し、総合力を高められたからこそ、壁を打ち破れたのだと思います」

 競技人生で初めてぶつかった壁は乗り越えた。宮内はこの後も、壁に直面していくことになるが、彼はそのたびに課題を克服し、ショットプッターとして成長していく。

(第2回へつづく)

宮内育大(みやうち・いくひろ)
1990年6月14日、高知県生まれ。大杉中時代はソフトボール部に所属。中学3年の時に参加した陸上大会の砲丸投で優勝したのをきっかけに陸上競技の世界へ。追手前高陸上部では高校2年時にジュニアユースで2位、3年時は総体5位、国体優勝の成績を残す。日大進学後は全日本インカレで3度の優勝を経験。日本選手権では13年、14年と2年連続で3位に入った。自己ベストは17メートル82。身長183センチ。投法はグライド投法。



(文・写真/鈴木友多)
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