中継を見始めた時に、今日は最後まで見なければならないような気がした。いつもなら、途中でほかの仕事に流されることもあるのに、結局最後まで目を離せなかった。放送終了後、慌てて次の用事に向かった。
 3月8日の名古屋ウィメンズマラソン。前田彩里選手は、実業団ランナーとしてのマラソンデビュー戦となった。彼女は15?の給水ポイントでの転倒後もペースを変えることなく、30?地点でのユニスジェプキルイ・キルワ選手のペースアップにも耐えた。最後まで力強い足取りで、2時間22分48秒の好タイムでゴールしたのは記憶に新しい。この記録は日本歴代8位だが、それよりも感心したるのが、日本女子として8年ぶりに2時間23分を切ったということ。世界が当たり前のように2時間20分台を連発している中で、日本人選手は8年も前から記録が停滞してしまっていたのだ。
(写真:8月の世界選手権でも活躍が期待される今井選手<左>と前田選手)
 かつて女子マラソンは、2004年のアテネオリンピックまで4大会連続でメダルを獲得、いわば日本のお家芸だった。当時は日本のトップであることが、世界のトップクラスである証と言えた。ところが、05年に野口みずき選手が2時間19分12秒の日本記録を出して以降、日本人が2時間20分台を切ったことは一度もなく、国際大会ではなかなかメダルを獲得できなかった。男子同様、「マラソン日本」の記憶は徐々に薄くなってしまった。

 そんなムードが漂う中で、8年ぶりの好記録。関係者が盛り上がるのも無理はない。それも記録を出したのが、マラソン2回目で、まだまだ十分な練習を積んでいない若手である。オリンピックの出場経験のある元女子長距離選手は「ようやく出ました。これからが楽しみです」と語っていた。さらに「彼女が楽しみなのはもちろんですが、記録が出たことで周りが変わってくると思います」と周囲への好影響も期待している。閉塞感が漂うマラソン界で、今回の快走が他の日本人選手にも、「できるかも」と思えるきっかけとなる可能性が考えられる。

 フェンシング、テニスの成功例から学ぶ

 先日、フェンシング日本代表コーチを務めるマツェイチュク・オレグ氏の話を聞く機会があった。彼は世界とは水をあけられていた日本のフェンシングを牽引し、指導方法はもとより、システムなどもすべて変更をした。それが太田雄貴選手の北京オリンピック男子フルーレ個人銀メダル、ロンドンオリンピックの男子フルーレ団体銀メダルにつながった。

 彼が就任した当時、日本選手、コーチのなかには「カテナイ」というメンタリティが染みついていたという。何をやっても、何をやらせても深層心理には「カテナイ」という気持ちがあり、自分たちで限界を作っていた。オレグコーチは、このマインドを「カテル」に変えない限り、世界で戦うことなどできないと指導したという。ただ、口先ではなく本気でそう思えるようにするのは簡単ではない。その世界を分かっている人間ほど、難しさを知っているからだ。「メンタルなんて変えられない。そのためには、少しずつ積み上げるしかないんです。ひとつずつ実績を積み上げ、自信を持たせていく。1人がその壁を超えるとチームは“勝てるかも”と考え始めるんですね」とオレグコーチは語っていた。この積み上げこそが、日本フェンシング界の「カテル」を作り上げたのだ。

 そういえば、錦織圭選手の活躍を支えるマイケル・チャンコーチも同じようなことを彼に指導したという。ロジャー・フェデラー選手に憧れるあまり、対戦できることに満足していた彼に「コートに入れば相手が誰であろうと勝つことを考えろ」と厳しく叱責した話は有名だ。本気で勝てると信じていない者が勝てるはずがないという、チャンの哲学である。

 この2つの話を知った後だったので、元オリンピアンの「記録が出たことで周りが変わってくる」との言葉にはすぐに合点がいった。前田選手の走りは「カテナイ」が蔓延している女子陸上界に、確実に一石を投じたはず。この刺激により「私にもできる」と思う選手が出てくるはず。本気で皆がそう思い、挑戦するようになれば、女子長距離界に光が射すのではないか。そういう意味でも前田選手の好走は本人だけでなく、業界にとって大きな転機になる可能性がある。

 女子だけではない、男子でも東京マラソンで今井正人選手が久しぶりの2時間7分台を出した。2時間7分39秒は日本歴代6位だが、日本記録は2時間6分16秒。なんと2002年の高岡寿成さんのもの。それから13年もの間、時計は止まったままである。一方で世界記録はアフリカ勢によって、度々更新されている。いかに厳しい状況か、お分かり頂けると思う。それだけに今井選手が出した記録の意味は大きい。これで男子マラソン界にも「勝負できる」という思いが広がることを強く望みたい。

 すると、前田選手、今井選手の頑張りに触発されたのか、日本実業団陸上連合が「(マラソン)日本記録でボーナス1億円」という“ニンジン作戦”を発表。賛否はいろいろとあるが、これで記録を出す選手が1人出てくれば、周りの意識も随分変わるはず。2人の活躍の直後というタイミングも良かった。ぜひ「カテナイ」を「カテル」に変える成功例として他の競技の手本となれるか。日本マラソンの勝負に注目したい。

白戸太朗(しらと・たろう)プロフィール
 スポーツナビゲーター&プロトライアスリート。日本人として最初にトライアスロンワールドカップを転戦し、その後はアイアンマン(ロングディスタンス)へ転向、息の長い活動を続ける。近年はアドベンチャーレースへも積極的に参加、世界中を転戦していた。スカイパーフェクTV(J Sports)のレギュラーキャスターをつとめるなど、スポーツを多角的に説くナビゲータとして活躍中。08年11月、トライアスロンを国内に普及、発展させていくための新会社「株式会社アスロニア」の代表取締役に就任。13年1月に石田淳氏との共著で『挫けない力 逆境に負けないセルフマネジメント術』(清流出版)を出版。
>>白戸太朗オフィシャルサイト
>>株式会社アスロニア ホームページ


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