日本代表のセンターバックとして一時代を築いた松田直樹が急性心筋梗塞で天国に旅立ってから8月4日でちょうど3年が経った。

 ブラジルW杯で松田に出会うことができた。

 日本代表のベースキャンプ地イトゥ。メディアセンターには過去のW杯メンバーの集合写真が大きなタペストリーで飾られていた。

 2002年日韓W杯のメンバー。背筋を伸ばしてフレームに収まる背番号3がいた。自信みなぎる鋭い目でこちらを見ていた。

 ザックジャパンのグループリーグ敗退翌日、最後のチーム取材で同センターを訪れた際、もう一度、彼がいるタペストリーの前に立ってみた。消化不良に終わった日本代表の戦いに怒っているような目に見えてくるから不思議だった。

 日本に帰国してから日本がW杯初勝利を挙げるロシア戦のDVDを観た。深夜になるブラジルW杯の放送を待つまでの時間つぶしで、何気なくDVDをセットした。

 視聴率が60%を超えたという伝説の試合。横浜国際競技場(日産スタジアム)は7万人近い観客で埋まり、今みても圧倒される雰囲気だ。当時の小泉純一郎首相もブルーのメガホンを持ってスタンドにいた。

 トルシエジャパンの代名詞と言えばフラットスリーだ。しかし、初戦のベルギー戦は高いライン設定の背後を突かれ、同点に追いつかれてゲームを終えている。その反省を活かして、ロシア戦ではラインを上げることにこだわらなかった。上げるスピードが明らかにベルギー戦より遅かった。ベンチではフィリップ・トルシエの「上げろ」というジェスチャーが出ていたにもかかわらず、である。ただリードしてからは、そのジェスチャーもなくなった。

 自分たちの取り組んできたフラットスリーに自分たちで修正を加えて歴史的な勝利をもぎ取ったのだった。

右ストッパーに入った松田は宮本恒靖、中田浩二と3バックのライン操作に気を配りながら、右サイドMFの明神智和との連係でマラト・イズマイロフ、イーゴリ・セムショフといった強力なアタッカー陣を封じこめた。明神から聞いたことがある。

「決して細かくではないですけど、マツさんとは状況によってああしよう、こうしようと話をしていました。マツさんからも『俺がボールを持ったらこう動いてほしい』とか要求があって、縦を狙えないときは僕が横に動いてボールをもらう。僕も『苦しくなったらパスを出しますんで頼みます』と言いましたし、お互いの呼吸やそのあたりの距離感が凄く良かった。マツさんの気持ちも伝わってくるものがあったし、絶対にサイドでやられたくないって強い気持ちを持って戦うことができました」

 修正と確認。
 2002年にあったものが今回なかったとは思わない。1-2で逆転負けしたコートジボワール戦の後、封じ込められた左サイドの香川真司、長友佑都はその日の夜に修正ポイントを語り合ったというし、チームとしても話し合いの輪が広がっている。チームで修正もしただろうし、確認もしただろう。日本らしいスピーディーなパスワークで崩す場面もあった。しかしながら、次のギリシャ戦でも勝ち点3をもぎ取ることができなかった。

 サイドからクロスを入れても中との呼吸が合わず、10人になったギリシャに守りを固められると攻め手を欠いてしまった。

 このときのアルベルト・ザッケローニ監督の采配は、批判を浴びている。相手が疲弊しているにもかかわらず、3人目の交代を使わずに攻撃でフレッシュな選手を投入しなかった。練習でやっていない終盤のパワープレーも引き続き採用している。指揮官に批判の目が向けられて当然ではある。だが、相手が1人少なくなって優位に立ちながら点を奪えなかった「ピッチ上」にも注目しなければならないと思うのだ。

 カウンターに対するリスクマネジメントは心掛けなければならない。とはいえ、守備で余っている選手がいれば、勇気を出して攻撃に参加する場面があっても良かったとは思う。バランスを大事にするザッケローニのセオリーで言えば攻め上がらないことが望ましい場面だとしても、2011年のアジアカップ準々決勝カタール戦では伊野波雅彦がリスクを冒して前線に顔を出し、決勝ゴールを奪っている。

 もし、松田直樹があのギリシャ戦のピッチに立っていたなら……。
 勝手な想像をするなら、チャンスと見るやきっと攻め上がっていったのではあるまいか。「ここで点を取らなきゃいつ取るんだ!」と周りに熱を伝える意味でも、攻撃陣に「何をやってんだ!」と喝を入れる意味でも。

 ザックジャパンに何が足りなかったのか。
 その一つの要素を、タペストリーの中にいる松田が教えてくれていたのかもしれない。

(このコーナーは第1木曜日に更新します)
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