試合会場のロフタス・バースフェルド周辺は、大いに盛り上がっていた。
 サムライの格好で応援にかけつけた日本のサポーターたちがテレビ局の取材を受けたり、日本人の数も増えた。驚くのは集まってきた南アフリカ代表のユニホームを着た南アフリカの人々が、日本を応援してくれたことだ。
(写真:壮絶な死闘が終了した直後のスタジアム。惜しくも8強には届かなかった)

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◇6月29日 1カ月に及ぶ戦いの末 

 会場は7割ぐらいしか入っていないものの、アウェーという感じがしない。これはいけるかもしれないと、私は期待を膨らませていた。
 もうひとつ驚いたのはメディアの数。決勝トーナメントでは2番目の申請数だったという。これには理由があって、2会場あるヨハネスブルクに拠点を置くメディアが多く、ヨハネスブルクから約1時間のプレトリアだから足を運べたというわけだ。
 そのあおりを食って、僕の席はメディア用の机のある席ではなく、サポーターの隣の席だった。真横で聞かされるブブゼラはたまったものではない。思わず空いているところに移動してしまった。前にいた南アフリカ代表のジャージーを着た若者2人は、試合前から音楽に合わせて踊っている。というか、ピッチが見えない!

 そんなこんなで苦労して見届けたパラグアイ戦は0−0のまま延長戦に突入し、結局は負けてしまった。日本を応援するファンが多かったため、私の周りは一様に落胆していた。先ほど踊っていた若者は、再び踊り始めていたが……。
 試合後のミックスゾーンでは次々と選手たちがメディアに対応していく一方で、PKを外してしまった駒野友一選手だけは無言のまま去ってしまった。
 PK戦は時の運であって、誰も彼を責めたりはしないだろう。攻撃ではいい上がりを見せていただけに、彼の無念さを思うと胸がしめつけられる。

 1カ月に及ぶ岡田ジャパンの戦いは終わった。
 大会前は崖っぷちに立たされていたが、グループリーグで2勝を上げ、決勝トーナメントに進むことができた。僕にとっても思い出深い大会になった。
 
 メディアセンターでは盗難被害が出ていると聞く。最後、気を引き締めて日本に帰るとしよう。
 読者のみなさま、私のとめどない日記におつきあいいただき本当にありがとうございました!

(このレポートは不定期で更新します)

二宮寿朗(にのみや・としお)
 1972年愛媛県生まれ。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当し、サッカーでは日本代表の試合を数多く取材。06年に退社し「スポーツグラフィック・ナンバー」編集部を経て独立。携帯サイト『二宮清純.com』にて「日本代表特捜レポート」を好評連載中。