「ボールを投げないことと、持たないことは違うんや」

 かつて、こう語ったのは江夏豊である。現役時代、ベンチの中だろうが、マッサージ室だろうか、江夏の左手には必ずボールが握られていた。

 これは阪神時代にバッテリーを組んでいた田淵幸一から聞いた話だが、遠征先の宿舎、江夏は眠りに落ちる前まで寝転がって左手で天井にボールをぶつけて遊んでいたという。

 天井にボールをぶつけると言っても、ドンと思いきり当ててしまったのでは、他の選手に迷惑がかかる。天井にかするかかすらないか、ぎりぎりのところ目がけて下から投げ上げていたというのだ。

「驚いたことに、朝、天井を見上げると、小さな黒い点がひとつだけついていた。それだけコントロールがよかったということでしょう」

 投げ込みについては是とする意見もあれば、非とする意見もある。最終的には本人が決める問題だろう。

 しかし、ボールを投げない日でも、感覚を忘れないために、絶えず手元に置いておくことは必要ではないか。

 ある意味ピッチャーにおいて、ボールは命の次に大切なものである。握ること、触ることもボールとのコミュニケーションのひとつと考えるべきだろう。

(このコーナーは二宮清純が第1、3週木曜、書籍編集者・上田哲之さんは第2週木曜を担当します)
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