2012年のプロ野球は通算2000本安打到達が見込まれるベテラン選手が何人かいる。東京ヤクルトの宮本慎也もそのひとりだ。現在、1975本。大台まであと25本に迫っている。大学、社会人を経由しての2000本安打は古田敦也以来、史上2人目の快挙だ。入団当時は守備要員だったため、“自衛隊”とも言われた男は、40歳を超えた今、チームにとっては絶対に欠かせない存在になっている。バイプレーヤーが超一流になるまでの道のりを二宮清純が取材した。
(写真:今季の目標は「2000本を早くクリアして、何とか優勝したい」)
 守備率9割9分7厘――。292回の守備機会で失策はわずかに1回。サード方向へ打球が飛べば、打者はアリ地獄に落ちたようなものだ。ファーストに走るだけ無駄かもしれない。

 東京ヤクルトスワローズの内野手・宮本慎也は今シーズン終了後、守備の名手に贈られるゴールデングラブ賞をサードで受賞した。40歳11カ月での受賞は史上最年長。ショートで6回、サードで3回。9回の受賞は内野手では歴代3位タイだ。

 サードはホットコーナーと呼ばれる。火の出るような打球が飛んでくる。これに対応するには瞬発力か。
「いや、それがそうでもないんです」
 やんわりとした物言いが、ベテランの味を感じさせる。
「ショートから転向した時、よく“サードは瞬発力”と言われました。打者との距離が近いため、打球が飛んできてから考える時間が少ないのは事実です。
 しかし、だからと言って過剰に反応してはいけない。たとえば左バッターの三遊間への打球。早くスタートを切りすぎると、行きすぎてしまうんです」

 これには少々、説明が必要だろう。左バッターの打球はサード方向へ流し打つとスライスがかかることが多い。ライン方向へ切れていくのだ。こうした打球に対応するには、どうすればいいのか。
「ちょっとスタートを遅らせればいいのです。そのほうがボールとの距離感がつかみやすく、グラブのハンドリングもうまく使える。コツがわかってきたのは今年に入ってからですよ」

 安定した守備を追求する宮本の商売道具へのこだわりは尋常ではない。「弘法、筆を選ぶ」である。
「いい仕事をするには、それを支える道具が必要なように、野球選手にとってグラブは体の次に大切なもの。言ってみれば、手のようなものなんです。
 いいグラブか、そうでないグラブかは手にはめた瞬間に分かります。革のおさまりっていうのかな。グラブを閉じた時に捕球面の真ん中あたりにピッとシワが寄ってきそうなグラブ、これはNGですね。逆にいいグラブはボールが芯にファッとおさまる。フィーリングの問題かもしれませんが、僕はこれを大切にしています」

 宮本のグラブ製作を担当するのは岸本耕作。ミズノのグラブマイスターだ。イチローや松井秀喜らのグラブも担当する、まさにグラブづくりの職人である。
「宮本さんのグラブの判断基準ははめた時にしっくりくるかどうか。最初のイメージをすごく大切にされる方です。使っているうちに手に馴染んでくるケースもあるんですが、最初に“ダメ”となると絶対にOKしてはいただけませんね。
 毎年、キャンプ前に2個ほど新しいグラブを納品します。一番ドキドキするのは最初にはめてもらう瞬間。ダメ出しの連続で、5〜6個新たにつくり直したシーズンもありました」

 メーカー泣かせといえばメーカー泣かせだが、そのこだわりが職人にとってはうれしくもある。岸本はこんなエピソードを口にした。
「あれは6、7年前でしょうか。宮本さんが、まだショートを守っていた時の話です。普通のグラブは中指から薬指、小指と徐々に先を短くしてつくるものですが、宮本さんには“ゴロ捕球の時に地面にグラブをつけたら、小指の部分にすきまができる”と指摘を受けました。
 すきまといっても測ったら、たった5ミリか6ミリの世界。しかし、それが宮本さんは許せないんです。“ここからボールが抜ける気がする。薬指と小指の先を同じ長さにしてください”と要望がきました。
 当たり前の話ですが、5、6ミリのすきまからボールが抜けることは絶対にありません。しかし、宮本さんは“グラブに少しでも不安があってはいけない”と考えているんです。私も長い間、この仕事をしていますが、こんなオーダーを受けたのは初めて。“ここまで(グラブに)こだわっているのか”と感銘を受けましたね」

 ミリ単位のこだわり。宮本にとって、それは比喩ではなく真実なのだ。ちなみに名手のグラブのお値段は? 苦笑を浮かべて岸本は明かす。
「ミズノの市販グラブは最高クラスで1個8万円。宮本さんのグラブの革にはヨーロピアンキップという生後半年の子牛のものを使用しています。キメの細かさが特徴で1頭の牛から使える革の分量はグラブ2個分。縫製など、すべて手づくり。したがって値段はつけられません」

 生粋の野球少年だった。育ったのは大阪府吹田市内の団地。長嶋茂雄の大ファンである父親の影響で野球を始めた。
 学校から帰ると団地の壁にチョークで的を描き、硬式テニスのボールを繰り返し、そこにぶつけた。こうした遊びを通じて、宮本はスローイングの基礎を身につけていった。
「どんな握りでも、だいたいのところへ投げられる自信はありますね」
(写真:「スローイングには苦労しない」と絶対の自信を持つ)

 高校は名門・PL学園へ。桑田真澄、清原和博の1年生コンビが甲子園を席巻したのは、宮本が中学1年の時だった。
「日本一の学校で野球をやりたい」
 PL学園の野球部員は1学年が20人弱。人数的には多くないが、全員が選りすぐりの俊英たちである。ハイレベルの競争を勝ち抜いてレギュラーになるのは容易なことではない。

 宮本の1学年上には、後にプロで活躍する立浪和義(中日)、片岡篤史(日本ハム―阪神)、橋本清(巨人−ダイエー)、野村弘(後に弘樹、横浜)がいた。3年時にPL学園史上、初めて甲子園で春夏連覇を達成する強力メンバーだ。
 橋本は自著『PL学園OBはなぜプロ野球で成功するのか?』(ぴあ)で宮本の印象をこう述べている。
<身長170センチそこそこで、守備がちょっと上手な内野手。怪物的なパワーを持っているわけでも、並外れたセンスを誇るわけでもない。どこにでもいる普通の選手というのが、僕の宮本に対する印象だ>

 PL学園といえば監督は中村順司(現名古屋商科大監督)。甲子園で6度、チームを頂点に導いた高校球界屈指の名将だ。中村が内野守備で徹底して指導したのは「右足の踏み込み」だった。
「捕球からスローイングに移るに際し、一番大切なのは右足の踏み込みです。これができていればグラブを持った左手をしっかり出せる。きちんと捕球できればスローイングにも移りやすい。もちろん打球を追いかける時はつまさきに体重がかかりますが、捕球の時は右足のカカトから入って、しっかり踏み込む。つまさきに体重がかかったままでは、きちんと投げられない。
 踏み込み方は打球が右に飛ぶか、左に飛ぶか、前の打球か後ろの打球かで変わってきます。また踏み込みの角度もファーストへ投げるのか、セカンドや本塁へ放るのかで全然違う。それらひとつひとつを丁寧に教えたつもりです」

 PL学園の野球部グラウンドは富田林市内にある。何度か練習を見たことがあるが、その質の高さには舌を巻いたものだ。比類なき英才教育がそこでは展開されていた。
 振り返って宮本は語る。
「嫌だったのは1年生の時のシートノック。上級生が全くエラーをしないんです。そこで1年生がポロッとやったりすると流れが止まる。皆、機嫌が悪くなっちゃうんです。あのプレッシャーは試合の比ではなかった。精神的にものすごく鍛えられました。実際、それに耐えられなくて潰れていった人もいた。今思い出しても緊張しますね」

 2年生でベンチ入りを果たし、春夏連覇のかかった夏の甲子園、宮本は決勝の常総学院戦でスタメン出場を果たす。先輩である強打のサード深瀬猛の負傷で出番が回ってきたのだ。
 中村には今でも忘れられないシーンがある、そのプレーからは宮本という野球選手の本質を見てとることができる。

「常総学院の監督は木内幸男さん。甲子園を知り抜いた方です。それまでベンチを温めていた2年生のサードが出場したので揺さぶりをかけてきた。何度もサードにバントを仕掛けてきたんです。宮本はそれをことごとくアウトにした。
 光ったのはそればかりではありません。8回にレフト前のタイムリーを打たれ、1点を返された。得点はPLの4対2。その時、中継に入った宮本がホームは間に合わないと判断し、一塁に送球した。オーバーランしたランナーが目に入ったんでしょう。これは相手の反撃ムードを断つ素晴らしいプレーでした。あれで試合の行方が決まったと言っても過言ではありません」
 これこそバイプレーヤーの原点。卓越した状況判断力はパワーやスピードを補って余りあるものがあった。

(後編へつづく)

<この原稿は2011年12月17日号『週刊現代』に掲載された内容です>