先週の本欄で、岡崎について「高校卒業時、名うての目利きでもある恩師にプロ入り自体を反対された選手」と書いたところ、いまは台湾でユース年代の育成にあたられている「名うての目利きでもある恩師」――黒田和生さんからメールを頂戴した。

 

「プロ入りを反対したわけではない。プロに行っても数試合しか出られないかも、といった。誤解なきよう」

 

 というわけで、ここでお詫びと訂正をさせていただく。

 

 さて、早いものでクライフがこの世を去ってからもう2週間以上が経った。先週末に行なわれたクラシコでは、試合に先立って彼とともに戦った選手たちのメッセージを集めたビデオが流され、大きな反響を呼んだ。

 

 メッセージの中には、現役時代にクライフ監督との不仲を噂された者のものもあった。だが、「クライフがいなければいまの自分も、いまのサッカーもない」との思いは、間違いなく全ての登場人物に共通するものだった。

 

 もしクライフがいなかったら――。

 

 トータルフットボール、ボール狩りといった概念は生まれず、サッカーは依然として魔術師たちの一騎打ちが続いていたかもしれない。少なくとも、ブラジルのW杯優勝回数はあと数回は増えていたはずである。74年オランダ戦での完敗から、彼らの迷走は始まったのだから。

 

 当然、バルセロナが素晴らしい育成システムを持つこともなかった。彼らは依然として、世界のスーパースターを買いあさるだけの、最近の中国クラブにも似たまなざしを向けられていたかもしれない。

 

 育成がなければ、グアルディオラも生まれなかった。グアルディオラが生まれなければ、スペイン代表がW杯を初制覇することも、また、ドイツが4度目の王座につくこともなかったのではないか。

 

 スペインの初優勝はバルサ・スタイルでの優勝だった、グアルディオラがバイエルンMの監督となっていなければ、バルサに手も足も出なくなっていたドイツ人のスペイン・コンプレックスは手つかずのまま放置されていた。

 

 日本サッカーもまた、クライフの影響と無縁ではない。

 

 先日、大宮アルディージャの鈴木社長から伺ったのだが、大宮のチームカラーは、74年のオランダ代表に起因しているのだという。ということは、クライフがいなければ、アルディージャのチームカラーは違った色になっていた可能性がある。

 

 そういえば、専門誌の下っ端記者だったわたしが、まだ無名に近かった滝川二の黒田監督を初めて取材したのは、92年冬のこと。初対面で、かつ年齢差があったにもかかわらず、朝まで呑むほど意気投合できたのは、74年W杯を現地で見たという黒田監督と、クライフの話題で盛り上がったから、だった。

 

<この原稿は16年4月7日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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