二宮: オーエックスエンジニアリングのレーサーは、アトランタパラリンピックをきっかけに世界に注目され始めました。それまではほとんどの車椅子が米国社製だったそうですね。

石井: はい。日本人選手も米国社製を輸入して乗っていたんです。当時は日本製のレーサーはほとんど知られていませんでしたね。それを、車椅子事業に参入したばかりの弊社がやろうということで、アトランタに向けて開発に乗り出しました。その頃、会社の経営は火の車。それでも2年かけての大勝負に出たんです。

 

二宮: 会社が大変な時期に、大勝負に出た理由は?

石井: 「オーエックスエンジニアリング」の名をバーンとアピールしたかったんです。

 

二宮: F1のレースと同じですね。勝てば、そこで世界に自分たちの技術を発信することができると?

石井: はい。我々の技術を世界の舞台で発表できるチャンスだと思ったんです。開発に乗り出して、1年目に初号機を展示会に出展しました。その頃はまだ「オーエックスが陸上用レーサーに参入するようだね」くらいの反応でしかなかったですね。2年目にアトランタの有望選手だった短距離ランナーの畝康弘選手を社員として入れました。畝選手には製品を試してもらっては意見をもらい、それを基に改良していったんです。

 

二宮: 選手を社員として採用したことに対して、周囲は驚いたでしょうね。

石井: 社内からも疑問の声はあがりましたよ。当時は経営的に危機的状況にあって、やっとやっと社員に給料を支払っていましたからね。「こんな時に社長は何をやっているんだろう......?」と。

 

二宮: しかし、畝選手を採用したことが実を結び、アトランタでは見事、オーエックスエンジニアリングのレーサーに乗った畝選手と女子の荒井のり子選手が、金メダル、銀メダルを1つずつ獲得しました。

石井: おかげで「オーエックスエンジニアリング」の認知度はグンと上がりました。とにかく、メディアが取り上げてくれて、取材も増えましたからね。

 

 選手雇用あっての金メダル

 

二宮: 当時、国内には車椅子メーカーはどのくらいあったのでしょう?

石井: 16社ほどあったと思います。そのなかで競技用を手掛けていたのは数社でしたが、外国製品を使用する選手が多かったですね。

 

二宮: 輸入車が多かった中で、オーエックスエンジニアリングはパラリンピックのメダルを獲得したレーサーを開発・製造した国内初のメーカーとなったわけですね。

石井: はい。選手を社員として入れていましたから、選手が会社にいて、いろいろとやりとりしながら細かく調整していったんです。それがアトランタでのメダル獲得につながったのだと思います。

 

二宮: その後、陸上だけでなく、車いすテニスや車椅子バスケットの選手なども社員として採用されています。

石井: 最初の畝選手を採用した際に、彼から多くのことを学びました。やっぱり、ユーザーの意見を無視して、いいものはつくれないなと痛感したんです。

 

(第3回につづく)

 

石井重行(いしい・しげゆき)プロフィール>

1948年、千葉県生まれ。71年、ヤマハ発動機に入社。76年、28歳の時に独立し、オートバイ販売会社「スポーツショップ イシイ」を設立した。ライダー、ジャーナリストとしても活躍。84年、オートバイのテスト走行時、転倒事故で脊髄を損傷。下半身不随となり、車椅子生活となる。88年、「オーエックスエンジニアリング」を設立し、翌年には車椅子事業部を設置。車椅子の開発・製造に着手し、92年には初号機を販売する。翌年には車いすテニス用、車椅子バスケットボール用、95年には、陸上競技用のレーサーを販売。アトランタパラリンピック以来、同社の車椅子で獲得したメダルは、計90個にのぼる。

オーエックスグループ http://www.oxgroup.co.jp/


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