19年前の今頃、野茂英雄は渡米に備え、都内のジムで黙々とトレーニングを行っていた。メジャーリーグの複数球団が、近鉄を「任意引退」した野茂に興味を示し、身分照会の文書を送っていた。しかし、「保留権」を持つ近鉄に交渉の窓口になる意思はなく、野茂の身分は宙に浮いていた。
 当時のコミッショナーは「第2の野茂を出すな」と全球団に通達し、メジャー球団とのタンパリング(事前交渉)の疑いをかけるなど、野茂は四面楚歌の状況にあった。しかもメジャーリーグは前年8月から選手会がストライキを続けており、終結の見通しはまだ立っていなかった。

 その頃、私は野茂と頻繁に会っていた。彼の口から不安や不満は一度も聞いたことがない。どんなに険しかろうが、自分の信じる道を行く。きっと、そういう思いだったのだろう。

 忘れられない言葉がある。あるメジャーリーグ関係者が、スッと野茂に近付き、こう言った。
「英語はしゃべれるのかい? 少しくらいは勉強しておいた方がいいぞ」
 即座に野茂は、こう返した。
「僕はアメリカに英語を覚えに行くわけではない。野球をやりに行くんです」

 スト明けのメジャーリーグ。独特のトルネード投法からバッタバッタと三振をとりまくる野茂は、瞬く間にヒーローとなった。ドジャースタジアムには三振を示す「K」のボードが並んだ。ファンは往年のヒット曲「バナナボート」のメロディーに野茂の名を乗せ、口ずさんだ。

 以下に記すピーター・オマリー(当時のドジャース会長)の言葉ほど野茂の魅力を伝えるものはあるまい。
<やたらリップサービスをする選手が多い中、野茂は多くを語らない。野茂の表現方法は言葉ではなく、右腕なのだ。彼はアメリカ人が忘れかけていたタイプのヒーローである>(95年7月25日号『タイム』誌)

 殿堂入りに際し、野茂のコメントを読んだ。「将来的にはアマチュアを盛り上げたい」。高校時代、無名だった野茂は社会人野球に育てられたとの思いがある。それがNOMOベースボールクラブの創設にもつながった。

 95年7月、レンジャーズの本拠地ザ・ボールパーク・イン・アーリントンのロッカールーム。オールスターゲームの先発を任された野茂は静かに支度をしていた。そこに一通の手紙が届いた。差出人は当時の全日本アマチュア野球連盟副会長・山本英一郎。「日本人としてキミのことを誇りに思う」。開国派の山本は「日本の宝だ」とまで書いていた。泉下で野茂の殿堂入りを、誰よりも喜んでいるに違いない。

<この原稿は14年1月18日付『スポーツニッポン』に掲載されています>