カープ創立準備委員長を務めた谷川昇の父・玉蔵はアメリカで財を成し、その仕送りにより後ろ盾が整い、昇はカープ設立にむけて奔走することが可能となった--。このことは前回に述べたとおりだ。今回は"カープ生みの親・谷川昇"の心中に迫ってみようと思う。彼をカープ設立に向けて邁進させた原動力、すなわち「つき動かしたもの」とは何だったのだろうか。なお以後、文中では昇のことを「谷川」と表記する。

 

 カープ創立三銃士

「郷土・広島にプロ野球チームを」と願った谷川であったが、彼が動き出すきっかけとなった人物が2人いる。彼らと谷川を合わせて、カープ誕生時の三銃士とも称される。ひとりは球界のフィクサーとして戦前からプロ野球界に旋風を巻き起こした赤嶺昌志である。赤嶺が声をかけたのが、広島出身でかつて名古屋にあったプロ野球チーム・金鯱軍で理事を務めた山口勲だ。そして、その山口が古くからの友人であった谷川に声をかけ、郷土にプロ野球チームをつくるならば是非と、谷川が動き出した。これがカープ誕生前の一連の流れであり、定説となっている。

 

 ところが、三銃士が揃ってカープ前史に名を連ねるのはわずかの期間だった。山口は2リーグ分立以前、かつての日本野球連盟時代に連盟とすれ違いがあり、彼の名前があったのでは、セ・リーグ連盟への加盟書類が受理されないということとなり、最初に名前が消されてしまった。赤嶺は選手を連れては球界を渡り歩くなど、すでにプロ野球選手の移籍に関っていた人物、今で言うところの代理人だ、とあって、理想を掲げて立ち上がる市民球団カープのカラーにはなかなか合わなかった。のちに「カープの代表になりたい」と自ら手を挙げるが、周囲からは受け入れられなかった。三銃士によって球団設立が動き出したものの、早々に2人が脱落。谷川だけが残ることとなった。

 

 戦後復興の渦中にあった広島にはプロ野球球団を単体で支えられる会社はなかった。谷川はこうした状況を理解した上で、球団設立に向けて動き出した。そこで谷川の出したのが「広島県と県内5市による出資」だった。

 

 1県5市が共同で出資するという、現代で言うならば「公設民営」であろう。当時、こうした公設民営という言葉が存在したかどうかは定かではないが……。谷川の案は広島県を筆頭にして、広島市、呉市、尾道市、三原市、福山市にそれぞれ出資比率を設けて、さらに株式の公募も自治体が中心になって実施するというものだった。

 

 谷川はこの大網を説明するという役割を担い、出資の内諾を取り付けようと各自治体を回った。カープ初代監督である石本秀一が「育ての親」、谷川は「生みの親」と呼ばれるのは、この公設民営的な球団の素地を固めて、その大網を説き、自治体を説得して回った人物だからである。

 

 谷川は広島県東広島の西条の生まれである。衆議院当選の経歴があり、地元では顔とも言える存在だった。しかし、前回も述べたとおり当時の谷川は戦前の活動がたたり、公職追放、いわゆるパージされた身だった。GHQによるパージを受けた谷川のような人物は、当時、日本全国でおおよそ1万人いたことを申し添えておこう。

 

 いわば、戦前の財閥を始め、実業家、政治家、宗教家など、それら多くがパージを受けた時代で、谷川だけが特別なことではなかった。しかし、彼のように目立った人物は、公職を奪われた上に、特審局による内偵がついた。よって、カープ誕生に向けた活動は身を隠しつつ、各自治体への説得口作にあたった。実に骨の折れる作業だったことは想像に難くない。

 

 自治体の歓待

 こうした谷川の立場では説明行脚も難しいとの声もあり、東京で中国新聞の通信部長をしていた河口豪が同行することとなった。2人が福山市を回ったときの資料をあたっていると、面白いエピソードがあった。以下に紹介しよう。

 

 河口は広島県第二の町とされる福山市への説明行脚の前に、まずは尾道市、三原市を回って説明を行った。その後、谷川と福山駅で待ち合わせたのだが、河口が駅に到着したときには、すでに谷川の姿はなかった。実は福山市の藤井正男市長が一足先に谷川を迎え、市議場へと連れていっていたのである。カープ誕生に胸を膨らませていた市長は、事前に谷川の到着時間を聞き出しており、「さあ谷川さんいらっしゃい。どうぞ、こちらへ」と、河口を待たずに議場へと引っ張り込んだというわけだ。ちなみにこの藤井市長は、その後、カープが存続の危機に瀕する度に、自分の懐から寄付金をはたいた人物である。

 

 驚いたのは河口である。待ち合わせたはずの谷川がいないのだから無理もない。<いまちょうど市会開会中だ。議場で説明をしてくれと有無をいわせず谷川さんを議場に引っ張り込んでしまったのだ>と、自著『カープ風説十一年』(ベースボールマガジン社)で振り返っている。

 

 パージされている人物を議会に登壇させたなど、もしこれが公となったらどうなっていたのだろう。公職追放者が議場で新球団の大綱を語り出資を募るとは何事だ、とお咎めもあったはずである。ただ、谷川は市長を含めた福山市の歓待ぶりに押されて登壇し、一連の説明を無事に終えた。河口が汗をかきながら到着したのは、その後のことだった。

 

 このように谷川と河口の大網説明行脚が歓待を受けたことからもわかるように、カープ誕生前には「球団はすぐ軌道にのる」という勢いが感じられた。ところが、である。カープは広島県全体をフランチャイズとして立ち上がった公設民営球団であったため、これが大きな足かせになったのだ。

 

 要は出資について各市から内諾を受けたものの、実際に現金が振り込まれたのは、カープの最初のシーズン後半がほとんどだったという。出資自治体の中でも尾道市にあっては、カープ3年目のシーズンが終わった昭和27年10月29日に議決されたという次第であった(出資金一覧表参照)。

 

(写真:株式会社廣島野球倶楽部自治体出資金一覧。『日本野球をつくった男--石本秀一伝(講談社)』より)

 これも無理のない話である。広島総合球場のある広島市は年間数十試合が開催されるが、他の自治体の試合数はわずかなもの。ましてや戦後の食糧難、生活苦の時代である。農村に出かけては、着物と食べ物を交換してもらいながら食いつないだ「タケノコ生活」の日々。そんな中で「野球なんぞに金が出せるか」との感情があるのも当然である。野球が好きな議員も少なからずいたが、議会ではさまざまな意見が交錯したのである。

 

 市民と県民による球団。高邁な理想を掲げたまでは良かったが、現実はこの出資元である自治体からの入金が遅れたことが、後々までカープが資金難に陥る大きな原因となるのである。

 

 夢のベースボールカード

 さて、谷川に話を戻そう。自治体行脚では身を隠しながら、目立たぬように行動した。加えて、父・玉蔵からの仕送りをもらいながら、カープ設立に奔走する日々。何がそこまで谷川をつき動かしていたのか? 谷川の実の孫である谷川広城(ひろき)に筆者はインタビューした。

 

 広城の父・和穂から口伝えで聞いたエピソードを披露してくれた。戦争が終わったばかりの頃、谷川家で代々語り継がれている話だ。戦後の混乱から立ち上がらなければと思い、谷川自身も代議士への道を歩む。その頃のこと、自宅の息子の勉強机にある物を発見したという。

 

「息子の引出しに入っているベースボールカードを見つけたそうなんです。それを見た昇お爺ちゃんは、こう考えたそうです。『そうか、スポーツであればね、フェアだから、いつか、戦争で負けたアメリカに対してスポーツで対等に戦って勝つことができる。これからの日本を担っていく子供たちに必要なのは、フェアな精神と共にスポーツを通じた復興だろう』、と」

 

 谷川が広島一中(現・広島国泰寺高)を卒業して、ハーバード大学大学院に留学して都市学を学んだのは前回に述べた。アメリカでは様々な体験をしており、留学中には地域の人や学生が総出で、フットボールチームを支え合う姿にも触れたという。
<留学中、アメリカンフットボールの大学対抗戦で、町ぐるみの熱狂的な応援合戦が展開されるのを見てヒントを得た--と、"カープ記者"津田一男は谷川から聞いている>(冨沢佐一『カープ30年』中国新聞社)

 

 カープの市民球団としての素地は、ベースボール発祥の国、アメリカから多大なる影響を受けていたのは疑いようもないことであった。

 

(写真:米国フロリン地区の通り沿いに建つ「谷川商店」。看板「T.TANIKAWA CO」の文字が誇らしい。出展/『在米廣島懸人史』・在米廣島懸人史發行所・昭和4年6月25日発行)

 さて最後に、前回のコラムで紹介した谷川の父・玉蔵が、アメリカで財を成したスーパーマーケット「谷川商店」の写真を掲載しよう。父・玉蔵がアメリカで財を成していなければ、この時期、カープ創立に奔走することも難しかったであろう。くしくもベースボール発祥の地アメリカに堂々と根を張った「谷川商店」がカープ誕生を支えたとは、何とも因縁を感じさせる。
(つづく)

 

【参考文献】 『カープ30年』冨沢佐一(中国新聞社刊)、『カープ風雪十一年』河口豪(ベースボールマガジン社)、『在米廣島懸人史』竹田順一(在米廣島懸人史發行所)、『日本野球をつくった男--石本秀一伝』西本恵(講談社)

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター

1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。18年11月30日に最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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