カープ球団は、昭和25年からセントラル・リーグの一員としてペナントに参戦できるようになった。その一番の要因は、前年の昭和24年、プロ野球の生みの親とされた正力松太郎が提唱した2リーグ制に端を発しているのは、過去に述べたとおりだ。


 この2リーグ制は、アメリカの2大リーグにならい、互いに切磋琢磨することで、野球技術の向上を図ろうとしたものである。

 

 GHQによる働きかけ

 実は2リーグ制誕生の背後には、アメリカの国家的な意図があったとされている。正力が2リーグ制を提唱する前、GHQ連合国総司令部で経済科学局長を務めながら、日本のプロ野球の復興を任されたウィリアム・マーカット少将が、正力と対談を行った。そのときに「2リーグ制」を薦め、このことは「野球と正力」に記されている。
<マーカット少将も、これを日本の球界代表たちにすすめたことはある>(『野球と正力』室伏高信・講談社)

 

 マーカット少将が「2リーグ制」をすすめたのは、正力がプロ野球総裁に就任する前の、コミッショナー就任式の席上で、昭和24年2月23日のことだった。当時、正力は公職追放の身であり、役職を「コミッショナー」や「総裁」と変えながら、追放を逃れようとしていた。いずれにせよマーカット少将は幾たびかにわたって、日本の2リーグ制の実現に向けて動き続けていた。

 

 なぜ、アメリカが日本プロ野球の2リーグ化に熱心だったかと言えば、日本の軍国主義復活を警戒したのである。敗戦国といえども日本が再び軍国主義国家にならないようにと、念には念を入れたとされる。日本が大和魂を掲げて、果敢に世界との戦いに挑み敗れ去ったが、アメリカは日本人の団結心を最も恐れていたのだ。

 

 プロ野球とて例外ではなく、ひとつの組織としてまとまった力を持たせておくのは好ましくないとばかりに、セ・パ2リーグの分立を推進したとされる。2リーグ制開始から今年でちょうど70年目を迎えるプロ野球にあって、軍国主義と野球は関係なかろうというのが一般論だが、当時は翌年に朝鮮動乱の勃発など戦火冷めやらぬ時代であった。

 

<極端な力の集中が日本の中で再び出現することを警戒しての発言であることは明らかであった>(『セ・パ分裂 プロ野球を変えた男たち』鈴木明・新潮文庫)

 

 権力の集中を恐れたアメリカの思いによりスタートした2リーグ構想を加速させ、決定づけたのが昭和24年9月、サンフランシスコ・シールズの来日であった。サンフランシスコ・シールズはアメリカのコーストリーグのチームで、メジャーではなく3A級である。このときシールズと対戦したのが、川上哲治や藤村富美男らを主力とした全日本チームである。だが、シールズと7戦して全敗(*注1)と、格下相手に苦渋を味わわされた。ならば日本も2リーグ制を採用し、アメリカに勝るとも劣らないチームづくりに乗り出そう--。こうしたアメリカとのやりとりの中で生まれた2リーグ制であり、これによってカープは誕生することができたのである。

 

 谷川、カープ大計を語る

 さて、前置きが長くなったが、カープが誕生した日時について記しておこう。カープという球団の誕生日は、昭和24年11月28日である。セントラル・リーグに申請書類が受理され、プロ野球球団としてセ・リーグに名前を連ねた日であり、カープファンには記憶しておいてもらいたい日である。

 

 しかし、この申請書類に書かれた会社組織などは、当時は存在していなかった。
<加盟申請書には『カープ広島野球クラブ』と書かれてはいるものの、実際は、会社と呼ばれるようながっちりとしたものはできていない。いわば書類はデッチあげで、加盟手続きもヤミ・ルートである>(「カープ十年史『球』・読売新聞」)

 

 カープ史の事実として記しておけば、株式会社カープ廣島野球倶楽部が正式に発足されたのは、最初のシーズンが終盤にさしかかった昭和25年9月3日のことである。

<広島商工会議所で設立総会を開き、株式会社として正式にスタート>(『カープ50年―夢を追って―』・中国新聞社)

 

 どさくさに紛れて、会社組織が出来上がる前に、シーズンインをしたというのは、カープ史を語る上でも欠かせない史実である。

 

 ひとまず加盟申請書を提出して、セ・リーグの一員となったカープである。創立実行委員長の谷川昇が大任を終えて、広島駅に降り立ったのは、昭和24年12月3日の午後2時43分のことだった。この時、広島駅で語ったカープ大計は、現在のカープにも生きていると感じられるものなので、原文のまま引用しよう。

 

<谷川ははやる気持ちを押えて、駅長室へ足を運び、待ち構えた地元の記者団と会見した。古びたストーブに乗せてあるヤカンからは、湯気が立っている。「カープは一個人のものでなく、県民のチームでなければならないと思う。資本金の二千五百万円も県下を主として広く全般から募るつもりです。チームは、もちろん強力なものを作りあげる自信はあるが、気品に欠ける選手は、いかに才能があってもとらない。これからの日本を背負って立つ青少年たちが、正々堂々と闘い、しかも人一倍の努力なくしては立派な選手、すなわち、立派な社会人になれないことを、興味を持ちながら学びとるための国民的な組織にしたい」>(「カープ十年史『球』・読売新聞」)

 

 駅長室で語った谷川の思いは、広島の人々にしっかりと伝わったことであろう。

 

 さて、付け加えればカープは開幕を3カ月後に控えながら、この時点で選手は誰一人決まっていなかった。「せめて監督だけでも」と、監督を決定するために会談がもたれたのも、同日(昭和24年12月3日)夜のことだ。参加者は、谷川を始め、伊藤信之・広島電鉄専務取締役、山本正房・中国新聞社専務取締役らである。

 

 これが有名な「宮惣会談」である--。石本秀一が初代監督となるのは周知のことだが、初代監督の候補として名前があがっていた人物は石本だけではなかった。石本の他、4名の名前があがったとされている。それについては次回のカープの考古学で記したい。
(つづく)

 

【注1】 昭和25年のシールズと日本の対戦成績は以下のとおり(うち1試合は大学選抜)。
10月15日(後楽園)シールズ対巨人軍、13対4
10月16日(神宮)シールズ対全東軍、4対0
10月21日(西宮)シールズ対全西軍、3対1
10月23日(甲子園)シールズ対全日本、2対1
10月27日(中日)シールズ対全日本、13対4
10月29日(神宮)シールズ対全日本、1対0
10月30日(後楽園)シールズ対六大学選抜、4対2

 

【参考文献】 『カープ50年―夢を追って―』・中国新聞社、室伏高信『野球と正力』講談社、「カープ十年史『球』(読売新聞)」、鈴木明『セ・パ分裂 プロ野球を変えた男たち』新潮文庫

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。18年11月30日に最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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