2007年春、松永昂大は生まれ育った香川県を離れ、兵庫県へと旅立った。三木市にキャンパスを置く関西国際大学に進むためだ。「初めて野球を習ったと思う」と言うほど、同大の練習環境、質は高かったという。野球に対して受動的だった彼が能動的になったのも、この頃である。関西国際大は松永が恩師と呼ぶ鈴木英之監督、野村昌裕コーチをはじめ、社会人野球で指導経験を持つスタッフ陣が基本を重視する教えを徹底していた。

 

愛媛新聞社

 

 

 

 

 阪神大学野球連盟の1部リーグに昇格したばかりとはいえ、関西国際大は前年秋で2位に入る実力校だった。松永の2学年上には榊原諒、伊原正樹という後にプロ入りを果たす二枚看板を擁していた。07年は榊原、伊原の活躍もあって、リーグ戦春秋連覇を達成する。翌年の春を制した関西国際大は秋こそ4季連続優勝を逃したが、強豪校への階段を駆け上がっている最中だった。

 

 一方、大学側は松永をどう見ていたのか。04年より現在まで指揮を執り、関西国際大を強豪校に育て上げた鈴木監督は、こう語る。

「リーグ戦で大差がついた時や、オープン戦で使いました。私は“2人が抜けたら、次は松永だ”というイメージは持っていましたので、経験を積ませましたね。私なりのメッセージでもありました」

 

 それだけ鈴木監督は高松商業高時代から松永を高く評価していた。

「腕の振りがシャープで切れ味のストレートを放っていました。左ピッチャー独特のシュート回転する“エグい球”を持っていたんです。ただ完成度は高くなく、コントロールに難がありました。例えば先発して5回を投げると、球数は100球を超えているという感じです」

 

 荒削りだが、磨けば光るものがある。それは鈴木監督から投手陣を任されている野村コーチも同意見だった。

「コントロールは良くありませんでしたが、ストレートは“強い球を放る”と思っていました。左ピッチャーであれだけの球を放るのは楽しみだなと。彼の場合はフォームを安定させることによってコントロールがついていきました。それに頭の良い子で、自分の欠点を分かっていた。毎日コツコツと練習して、それを克服していったんです」

 下半身を強化することで、フォームの地盤を固めていった。

 

 首脳陣の見立て通り、二枚看板が抜けた後はエースを任された。するとチームは再び春秋連覇を達成。松永は2季連続最優秀選手賞を受賞した。春の全日本大学野球選手権大会ではベスト4進出、秋の明治神宮野球大会ではベスト8入りに貢献するなど、申し分のない活躍ぶりだった。「“負けたくない”という思いはありましたが、先輩たちのおかげです」と松永は驕り高ぶることはなかった。鈴木コーチも「試合に投げても慢心しなかった。高みを見ながら次の課題、次の課題と練習していったのが良かったのかなと思います」と証言する。

 

 鈴木監督の回想――。

「松永にはものすごく現実的でドライな一面がある。彼が入学した時に『プロを目指せる選手だから頑張れよ』と声をかけたら、『僕はそんなに野球好きじゃないんで』と返ってきました。それが3年生の春でガラッと変わりましたね。『本気で野球やります』と言ってきたので、『どうしたんだ?』と聞くと『就職活動の一環です』という。でも、その一方で芯の強さがあった。先輩が抜けて周りからは“チームが弱くなる”と見られていましたが、松永は“オレが勝たせる”と強い思いを持っていたようです」

 

“投げる就活”

 

 当然、押しも押されもせぬエースとして名を上げた松永には、プロ球団からの注目が集まっていた。しかし4年時の春にはもうプロ志望届を出さないことを明言した。

「“プロ野球に行きたい”という思いがなかったんです。大学生だったら就職活動をしていく中で、志望する企業にエントリーシートを提出しますよね。そのエントリーシートを送らない就職先のひとつが、僕にとっては“プロ野球”だったんです」

 

 当時の新聞記事には、プロ入りを勧めた榊原に断りを入れた際のエピソードが紹介されている。

<「(プロで)やれても、いいところ10年。そこからニートとかキツいですからね」>(『スポーツ報知』2010年4月27日付け)

 

 リアリストの松永は企業への就職を目指していた。その決断を公言したのは4年の春だったが、「野球は嫌いじゃないけど、のめり込んだほどではない」松永にとっては、元々プロ野球は選択肢になかった。リクルートスーツには着替えず、ユニホーム姿での“投げる就活”だ。自己PRは「野球」だった。

「野球を使った方がいい会社に就職できる。だから結果を残すしかなかった。僕の2学年上には榊原さんと伊原さんというプロ野球選手になった先輩がいました。だから、その2人ぐらい活躍すれば、就職には困らないだろうなと考えたんです」

 

 春のリーグ戦は第1節で帝塚山大学に勝ち点を落とすなど、大阪体育大学に次ぐ2位に終わった。2年連続での全日本大学選手権出場はかなわなかった。「春に初めて負けて、秋は“絶対優勝せなアカン”と思いました」と松永。鈴木監督からも発破をかけられ、松永の内に秘めた闘志に火が付いたのだった。

 

「“松永で負けたらしょうがない”と思わせてくれました」と指揮官からは絶大な信頼を得ていた松永は、秋に進化した姿を見せつける。9試合に登板し、防御率は0.49。リーグ記録にあと1勝と迫る8勝を挙げた。関西地区大学野球選手権大会で連投し、明治神宮大会の出場権獲得に貢献。同大会で2年連続のベスト8進出を果たした。十分すぎるほどの自己PRだった。

 

“投げる就活”の甲斐あって、就職先を射止めた。鈴木監督によれば、秋には上位指名を約束する球団スカウトもいたというが、松永は進路を翻すことはなかった。都市対抗野球で1度、日本選手権で3度の準優勝を誇る社会人野球の強豪・大阪ガスに入社した。千葉ロッテでクローザーとして活躍した成本年秀、阪神で先発ローテーションを任されていた能見篤史ら多くのプロ野球選手も輩出している。11年春、志望通りに就職した松永だったものの、入社後すぐに“転職”を願い出ることとなる――。

 

(最終回につづく)

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松永昂大(まつなが・たかひろ)プロフィール>

1988年4月16日、香川県大川郡志度町(現さぬき市)生まれ。小学3年で野球を始める。志度中、高松商業高校を経て、2007年に関西国際大学に入学。関西国際大では3年時より主戦となり、阪神大学リーグ春秋連覇に貢献。4年秋にも優勝を果たすなどリーグ通算23勝(3敗)を挙げる活躍を見せた。大阪ガスでは入社1年目から公式戦登板。2年目にはパナソニックの補強選手として都市対抗に出場、8強入りに貢献した。13年、千葉ロッテにドラフト1位で入団。1年目から主に中継ぎとして、58試合に登板し、4勝1敗1セーブ28ホールドで防御率2.11と活躍した。スリークォーターから投げる鋭く曲がるスライダーが武器。2年目以降も毎年40試合以上に登板し、ロッテのブルペンを支えている。NPB通算成績は308試合に登板し、14勝12敗1セーブ107ホールド、防御率は2.98。身長175cm、体重82kg。左投げ左打ち。背番号28。

 

(文・写真/杉浦泰介)

 

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