宇都宮恵理(日本郵政グループ/愛媛県大洲市出身)最終回「手に汗握りながら直訴したあの日」
2009年、宇都宮恵理は八幡浜高校に入学し、陸上部に入部した。県内屈指の強豪校。最初は中学時代の練習量とのギャップに苦しんだ。
中学ではバレーボール部との兼任だったことと、陸上部を受け持った中岡靖典先生の「生徒を中学で潰さない」という意向で短い練習時間の中で800mのインターバル中心のトレーニングだった。高校に入ると8000mや30分ジョグなどがメニューに加わった。
宇都宮は「こんなに練習するのか」と驚いたという。高校時代は7時前には登校し、8時半までは朝練習で6~7km走った。授業を受けて、昼休みになると陸上部はグラウンド整備を行う。放課後になると19時あたりまで再び練習という毎日を過ごした。
宇都宮は高校入学当時を振り返る。
「1年生の頃は、練習についていけませんでした。(集団から)離されるたびに悔しくてよく泣いていました。“泣き虫”と顧問の倉田茂先生に言われて、その言葉でまた泣いて……。1年生の時はこれの繰り返し。同期は3人いましたが無名なのは私だけでした」
母・育子は「(陸上の練習で娘が)潰れてしまうのではないか、と不安でしたが娘は自分がやると言ったらしっかりやる子なので見守っていました」と語った。母としては陸上部の強豪校・八幡浜高校進学は反対だったが娘の決断を尊重した。
同校陸上部には体重制限もあった。宇都宮の場合「167とか168cmの身長で44kgあたり」がラインだった。母にとってはこれも心配の種だった。
「身長は伸びているのに、だんだん痩せていきました。小学6年生の頃の方が体重はあった気がします。顔色も悪そうでしたが本人は弱音を吐くことは一度もなかったです」
母は管理栄養士として病院に勤務していた。「食事の面で何か工夫は?」と訊くとこう返ってきた。
「入院患者の術前ケアの一環で免疫力を高める食事を提供し始めた時でした。その献立を参考にしながら、体内の栄養状態を上げるような食事をなるべく、娘にはとらせるように心掛けていました。“私、管理栄養士で良かったなぁ”と思いましたよ」
宇都宮は「食事をした後、怖くなってしょっちゅう体重計に乗っていた」と振り返る。修学旅行ではアイスクリームを美味しそうに食べていたクラスメイトに気を使わせないように、そっとその場から離れた。自分でこの高校に進学したいと決めたのだから、自己管理は徹底していた。
引き受けたキャプテンとエース区間
宇都宮は同校の商業科に進んだため資格の取得もマストだった。加えて毎朝漢字テストや英単語テストもあった。ハードな陸上の練習に加えて、眠い目を擦りながら勉強も精一杯取り組んだ。親の手を煩わせることは一度もなかった。
歯を食いしばりながら耐えた高校時代の中で宇都宮にとってピンチでもあり、チャンスともなったのが高校生活最後の冬の駅伝シーズンだった。
全国高校駅伝出場を懸けた県駅伝の約1カ月前。チームのエースが自己管理を徹底できていなかったこともあり、キャプテンを降ろされた。代行という形でキャプテンに指名されたのが宇都宮である。当時の心境をこう吐露した。
「あと1カ月しかないのに、無理だと思いました。当時、“全国には済美高校が行く”というのが前評判でした。そんな状況でいきなり言われても無理だと一瞬思ったんです。でも、ここで諦めるのは嫌だと思い、引き受けました」
宇都宮の不安は杞憂に終わった。部の緊急事態に選手たちはみんなで協力し始めたからだ。
「練習後、“今日の練習はどうだった”“よりよい走りにするためには?”とみんなが意見を積極的に出してくれるようになった気がします」
キャプテンを引き受けたことで彼女の責任感も増した。県駅伝でエース区間の1区を「自分が走る」と立候補した。「エースの子も怪我をしていたので私しかいないと思った」と宇都宮。顧問にその旨を伝える際は手に汗を握った。それと同時に「負けたら私の責任だ」と強く自覚した。
決死の覚悟で1区を走った。1位で次のランナーに襷をつないでみせた。宇都宮の覚悟がチームメイトにも伝わったのだろう。八幡浜高校は見事、済美高校に競り勝ち全国の切符を掴んだ。
度重なる怪我
全国駅伝でももちろん1区は宇都宮だった。ところが、である。大会のおよそ10日前に足首を捻挫する憂き目に遭う。テーピングで固定しながら、走った。本人は「すごく遅かった。たぶん40番あたりだったと思います」と唇を噛んだ。話を聞くに、ここから宇都宮の競技人生は度重なる怪我に苦しめられる。
大東文化大学に進学すると、2年生の時に左スネの疲労骨折で復帰に4、5カ月かかった。3年生の終わりには右大腿骨を疲労骨折し、復帰に半年を要した。
日本郵政に入社後は本人曰く「ジェットコースター」のような競技人生を送る。2016年4月に入社すると夏に左ヒザの棚障害に見舞われる。ヒザのヒダが関節の間に入り込み激痛が走る怪我だ。その後は両アキレス腱痛、シンスプリントを抱えてしまい走れるようになったのは翌年の6月だった。懸命にトレーニングを積み、2018年1月の皇后杯全国女子駅伝(都道府県別)では愛媛県代表の1区を任され7位と好走した。
この結果に宇都宮は「これで勢いをつけて、良いシーズンにする」と意気込んだ。しかし、この直後に今度は右ヒザの棚障害に始まり、両太ももの骨の疲労骨折、股関節の疲労骨折と相次いでアクシデントに見舞われてしまった。
普通ならばここで心が折れてしまってもおかしくない。だが、皇后杯での手応えが宇都宮の心を支えたのだろう。彼女は「絶対に諦めるな。今、やれることを懸命にやる。一日一日を全力で頑張るんだ」と自分に言い聞かせた。
宇都宮はここ数年、継続したトレーニングを積めていないのが現実である。だが、彼女は未完の大器だと信じたい。宇都宮に関わった指導者たちはその素質を高く評価していた。今は苦しいかもしれないが大地にしっかりとした根を張る時期だ。いつか、大きな花を咲かせる日を信じて――。
(おわり)
<宇都宮恵理(うつのみや・えり)プロフィール>
1993年6月17日、愛媛県大洲市生まれ。八幡浜高校で本格的に陸上を始める。高校卒業後、大東文化大学を経て2016年に日本郵政グループ陸上部に入部(勤務はかんぽ生命保険)。18年、19年と都道府県対抗女子駅伝の愛媛県の第1区を担当した。自己ベストは3000m9分24秒99、5000m15分42秒82、1万m32分57秒61。身長170cm。
(文・写真/大木雄貴)
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