愛媛県北宇和郡鬼北町で生まれ育った河添千秋は5歳上の兄、2歳上の姉がいる末っ子だ。2000年の秋分の日に生まれたため、「千秋」と名付けられた。幼少期は3人でよく遊んだ。「田舎なので交通量も少なく、近所の道路で一輪車に乗ったり、キャッチボールをしました。両親も運動は好きなので、冬はスキーに行くこともありましたね」と河添。外で遊ぶことが好きな少女は、この町ですくすく育った。

 

 

 

 

 

 

 父・伸顕によれば、「とにかく活発な子」だった河添は兄と姉の影響を大きく受けた。

「上の2人がすることは“自分もしたい”“勝ちたい”という感じでした」

 兄も姉も運動神経が良かった。2人が陸上大会で活躍する姿を見て、彼女が“自分も”と思うのも不思議ではない。

 

 小学4年で宇和島陸上クラブに入った。きっかけは地域の陸上大会で活躍し、愛媛県大会に出場できるようになったことだった。県大会に向け、トレーニングを陸上競技場で行った時に宇和島陸上クラブの存在を知ったのだ。クラブからの誘いもあり、入団を決めたのだった。

 

 実は河添、小学2年からバスケットボールを始めていたこともあり、陸上に対しては強いこだわりがあったわけではなかった。河添は「はじめは入りたくなかった。お父さんに無理やり連れて行かれた感じです」と笑う。

 

 一方、父・伸顕は娘の才能に気付いていた。

「上の2人も能力は高かったのですが、千秋は“明らかに違う”というのが分かりました。教えたことに対し、それをすぐに体現できたんです」

 

 父の見立ては間違いでなかった。クラブは週1回の練習にもかかわらず、河添はメキメキ実力を付けていく。小学5年から短距離に加え、走り幅跳びにも挑戦するようになった。その走り幅跳びでは、6年時に全国大会に出場した。

 

 転校を決意

 

 中学は近所の学校ではなく陸上部のある宇和島南中等教育学校に進学した。中学からは陸上に専念。一層の飛躍を誓った河添は秋に全国制覇を成し遂げた。ジュニアオリンピック大会女子C(中学1年)の走り幅跳びで5m45をマークし、表彰台の頂点に立ったのだ。

 

 しかし、中学での全国制覇はこれきりだった。2年時は全日本中学校陸上競技選手権大会で6位、ジュニアオリンピックの女子B(中学2年)では3位入賞にとどまった。

「天狗になったわけではないのですが、“この練習量でも勝てるんだ”と思ってしまった。そこから他の選手たちと努力の差が出てきました」

 

 3年時には全中で予選敗退。和歌山で行われた国民体育大会では少年女子Bで8位入賞だった。「悔しさはありましたが、どう頑張っていいか分からなかった。何回跳んでも、うまく跳べなかった」。河添は霧の中で、もがいていた。

 

 宇和島南中教校は中高一貫校。高校にもそのまま進むことができた。だが陸上で伸び悩んでいた河添は、違う選択をした。それは松山市文京町にある松山北高校への転校だった。

 

 父・伸顕が当時を振り返る。

「中学の時から県の陸連の方たちに気を留めていただいていました。そこでアドバイスをいただき、娘にも話をしたんです」

 そのアドバイスとは転校のススメだった。河添も“強くなりたい”との思いを抱いていた。同級生にも転校を希望する者がいたため、障壁は少なかった。

 

 松山北の陸上部・中山桂顧問は県内で有名な指導者だった。河添自身も県内の強化合宿などで出会い、指導を受けたことがあった。

「中山先生は三段跳びの高校記録保持者を指導していた実績もありました。自分も教えてもらいたくて松山北に行きました」

 

 松山市外にある自宅からは離れることにはなるが、迷いはなかった。“もっと跳びたい”。その想いが彼女を突き動かしていた。

 

(第3回につづく)

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河添千秋(かわぞえ・ちあき)プロフィール>

2000年9月23日、愛媛県北宇和郡鬼北町生まれ。小学4年で陸上競技を始める。中学1年時にジュニアオリンピックCクラス(中学1年生)の女子走り幅跳びで優勝。松山北高校に進学後、2年時にU18日本選手権の三段跳びを制した。3年時には四国高校選手権で日本高校新記録となる12m96をマーク。U20世界選手権で2種目(走り幅跳び、三段跳び)に出場。全国高校総合体育大会の三段跳びで優勝、走り幅跳びでは2位に入った。国民体育大会は少年女子A走り幅跳びを制し、同三段跳びは2位だった。U20日本選手権は三段跳びで優勝した。この春、日本女子体育大学に入学。自己ベストは走り幅跳び6m26、三段跳び12m96。身長157cm。

 

(文・写真/杉浦泰介)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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