ちょっと緊張した面持ちで、スーツ姿のその人は古巣のファン、サポーターの前に立っていた。
「引退については長い時間考えました。自分でもまだできるとは思いますが、次のスタートにチャレンジしたいと思い、この決断をいたしました。横浜F・マリノス、浦和レッズ、カターレ富山といろんな角度でサッカーを見てきて、特殊なゴールキーパーというポジションで18年間プロ生活をしてきました。培った自分の経験を、子供たちやサッカーをしている人たちに伝えたいと思い、指導者への道に進むことにしました」
2月23日Jリーグ開幕戦となった横浜F・マリノス―ガンバ大阪戦(日産スタジアム)の試合前。引退を表明した榎本哲也に、あいさつの舞台が用意された。
F・マリノスの育成組織出身で2002年にトップ昇格後、15年にわたってプレーした。その後浦和レッズで2シーズン、ユース時代の恩師である安達亮監督率いるJ3のカターレ富山で1シーズン過ごした。昨季、正GKとして27試合に出場しており、契約更新のオファーに加え、他クラブからのオファーもあったという。しかし熟慮の末、引退を決断。育ったクラブに戻り、スクールコーチに就任することが本人の口から発表された。
記録にも記憶にも残るゴールキーパーであった。
身長180cmと小柄だが、ほほ同じサイズであるクラブの先輩である川口能活と同様に反射神経に優れ、守備範囲の広いスタイル。1試合における平均失点数の「防御率」ではヴァンズワム(2000~2003年、ジュビロ磐田)の防御率0.89、チョン・ソンリョン(2016年~、川崎フロンターレ)の0.95に次ぐ1.02をマークしている。堅守のF・マリノスに彼の存在は外せなかった。
彼はこう語っていた。
「ウチは守備が伝統と言われてきて、マツさん(松田直樹)、ボンバー(中澤佑二)、ユウゾウ(栗原勇蔵)たち個の能力の高いセンターバックがチームにいてくれたおかげ。だから防御率は自分だけ(の記録)じゃないし、そこはあんまり頭に入れないようにしていますね。ヒロキ(飯倉大樹)も防御率いいし、ディフェンスのみんなが頑張ってインターセプトやシュートブロックしてくれているから。俺の場合、防御率というよりも毎試合ゼロに抑えることを意識しています」
エノテツと言えば、真っ先にあのシーンが頭に浮かぶ。
昇格2年目の2003年、正GKの榎本達也がケガで離脱したため、19歳の彼に多くの出場機会が訪れた。
両ステージ優勝が懸かった11月29日のホーム、ジュビロ磐田戦。
前半にジュビロのグラウにフィードを邪魔されたことで激高して胸を小突いてしまい、まさかの退場処分を受けた。若さゆえ、優勝に向けて気持ちを高めていたゆえ。しかし事の重大さに気づいて、彼は泣き崩れてしまう。10人になったチームは一致団結して試合をあきらめず、ロスタイムに久保竜彦の“ドラゴンヘッド”がさく裂して逆転勝ちで奇跡の優勝を収めた。歓喜の瞬間のなかで1人、泣きじゃくっていた姿を思い出す。
あの経験を踏まえて、彼は沈着冷静な守護神になった。
味方との連係を高めて、シュートを防ぐシーンが多かった。シュートを打たれないに越したことはないが、打たれるならコースを限定して打たせる。ディフェンス陣のポジションを見て、意図を感じ、己のポジションを取る。それを忘れることはなかった。
後輩である飯倉とのレギュラー争いは激しかった。サブに回る時期が長くなっても、出番がいつ来てもいいようにと準備を怠らなかった。
「この状況をどう変えていけば分からないから、練習をむちゃくちゃやるしかない。でもやりすぎて、次の日の練習がよくなかったりする。日々、相当なパワーが必要でした」
2010年、11年はリーグ戦で1試合も出番が訪れなかったが、13、14年は正GKに返り咲いている。松永成立コーチのもとで、心技体すべて鍛えられていった。
愛着あるF・マリノスを離れた理由の1つに、自分を試したいということも少なからずあった。
「このチームだから失点ゼロに抑えられるところがありますから。自分の力がどれほどあるのか、外に出て試してみたいという気持ちもどこかにあるんです」
浦和ではリーグ戦で出番がなく、富山では「J1ではできなかった経験もいろいろとできました」と語る。
次の目標は、指導者として後進を育てていくこと。
ファン、サポーターに言葉を伝える彼のその目は、意欲に満ちていた。
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