プロ野球のオープン戦を見る。ライト線の打球をヨタヨタと追うサンズの動きが、草野球に見えてくる。

 

 大相撲を見る。そんなはずはないのだろうけれど、土俵際でもう一踏ん張り、といった場面が減った気がする。あっさりと土俵を割ってしまう力士が目立つというか。

 

 いや、もちろんサンズは必死にボールを追っていたはずだ。昨年の韓国野球打点王とはいえ、外国人を8人そろえた今年の阪神にあって、自分の立場が決して強くない……というか、むしろ弱いということは、よくわかっているだろうから。

 

 力士にしたってそうだ。一番の重みはいつもとまったく変わらない。彼らが臨んでいるのは本場所であって、勝敗が番付や給金に反映されない花相撲ではない。

 

 なのに、テレビ画面を通じてみる野球は、相撲は、まったくもって物足りない。演者はいつもと変わらないのに、興奮や感動といった感情がまるで込み上げてこないばかりか、正直、ちょっと退屈ですらある。

 

 つくづく、観客というものの存在の大きさを思う。

 

 スタジアムやアリーナを埋める観客は、興行主に入場券収入をもたらすだけの存在でなかった。試合の興奮を煽り、選手たちが自覚していない火事場の力を引き出す存在でもあった。

 

 よくわかった。観客のいないプロスポーツは、もはやプロスポーツではない。つまり、鑑賞に堪えるものではない。

 

 考えてみればそれも当然で、サッカーの世界において、無観客試合とはチームや協会に科される相当に重いペナルティーである。わたしはいままで、「血沸き肉躍る無観客試合」というものに出くわしたことがないが、どうやら、偶然ではなく必然だったらしい。

 

 嘘かマコトか、東京五輪でも無観客での開催が検討されているというが、史上最悪にして最低の五輪にしたいのならばどうぞ、というしかない。中止? そんなことをしたら、今後五輪開催地として立候補する国が絶滅する。大金をつぎ込んでも、疫病が蔓延したらパー? 一体全体、世界中のどこの国がそんなリスクを負いたがるものか。予定通りか延期か。IOCに残された選択肢はこの2つしかないとわたしは思う。

 

 スポーツに携わる人間の一人として、いまはとにかく終息を祈るしかないのだが、もうひとつ、スポーツにしかできないこと、スポーツだからできることを考える時期でもあるように思う。

 

 サッカーに関していえば(本当ならば野球も)、当座の試合がなくなってしまった選手たちが、いつもと違った形で子供たちと触れ合える機会は作れないだろうか。学校が休校となり、居場所を失った子供たちにチームの練習場を開放する、なんてこともできないか。

 

 子供たちにとって、今回の騒動は大人になってからも必ずや語り草になる一大事である。そのときにどんな経験をしたのか。スポーツは、Jリーグはどんな経験を提供してくれたのか――。

 

「あのとき、Jリーガーとドッジボールしたんだぜ」

 

 そんな未来の大人が生まれてくれるなら、この騒動も悪いことばかりではない。

 

<この原稿は20年3月12日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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