目下、打率3割8分4厘でセ・リーグのリーディングヒッターをひた走るのが広島の堂林翔太選手です。鯉の"プリンス"のブレイクは広島ファンだけでなく多くのプロ野球ファンが待ち望んでいたことです。


 堂林選手は2010年にドラフト2位で広島に入団しました。中京大中京高(愛知)時代はエースで4番、夏の甲子園で優勝しました。高い身体能力と打力、そしてアマチュア時代の経歴も文句なし。広島ファンが期待を込めて"プリンス"と呼んだのも当然です。

 

 1軍デビューはプロ入り3年目の12年でした。開幕戦(対中日)は7番・サードでスタメン起用。当時の監督、野村謙二郎さんの目にとまっての大抜擢でした。この年、堂林選手は144試合フル出場を果たし、打率2割4分2厘。リーグ最多の150三振を喫しましたが、チーム最多の14本塁打を放ちました。そのオフには背番号が13から7に変わりました。広島の背番号7といえば野村さんが現役時代につけていたものです。球団の彼に対する期待の大きさがうかがえました。

 

 だが、そこから伸び悩みました。13年8月、死球を受け、左手を骨折。14年にはサードのレギュラー奪回もならず93試合、15年は33試合と徐々に出場機会も減っていきました。16年は47試合、17年は44試合。昨季はわずか28試合でした。

 

 長打力は天性のものであり、その点で堂林選手に才能があるのは間違いないところです。伸び悩みの理由を、広島のレジェンド衣笠祥雄さんは生前、こう語っていました。

 

「彼は素直で良い子なんだろうね。人のアドバイスを何でも聞きすぎるところがある。"ハイ!ハイ!""わかりました!"ってね。真面目なんだろうねえ。プロで大成するような選手は"ハイ!"って聞きながらも、自分に合ったものだけ取り入れる要領の良さがある。堂林も、もっとアドバイスは気楽に聞いておけよっていつも思ってるんだけどなあ」

 

 振り返れば、悩めるプリンスは毎年のように誰かしらからのアドバイスを受け、打撃フォームを変えていました。

 

 15年の秋季キャンプでは「バットの出方をスムーズにするために」と落合博満さんばりの"神主打法"に取り組みました。かと思えば年が明けた春季キャンプでは、打撃コーチの「タイミングをとりやすくするため」というアドバイスを受け、足を大きく上げるフォームに変えました。しかし結果は得られませんでした。

 

 さらに17年のオフ、「今年がダメなら後がない。それくらいの覚悟でやっています」と決意した堂林選手は、ベテランの新井貴浩選手に弟子入りしました。恒例の護摩行に同行し、バッティングフォームも新井選手と似たものになっていました。

 

「新井さんに練習中に教えていただいたことを実践していたら、自然とこうなりました」

 

 バットの先端をマウンド方向に少し傾けて構える姿は、新井選手とうり二つでした。だが、この年、打率2割1分7厘、本塁打はわずか1本でした。

 

 それがプロ入り11年目の今季、復活したのには理由があります。きっかけは後輩の鈴木誠也選手のアドバイスでした。鈴木選手は堂林選手の3歳年下。堂林選手が悪戦苦闘している最中に頭角を現しました。15年に97試合に出場し、16年序盤から1軍に定着。交流戦では3試合連続で決勝ホームランを放つなど大活躍を演じました。"神ってる"という流行語まで生み、25年ぶりのリーグ優勝に貢献しました。

 

 今年1月、堂林選手は宮崎県で鈴木選手と自主トレを行いました。そこで自ら弟子入りを志願、鈴木選手から「頭が突っ込みすぎている」と指摘され、それを修正したのです。プロに入ってから何度目かの新フォームですが、これがしっくり来たようです。

 

「頭が突っ込むと右足に乗れなくなる。右足に力を感じながら、ゆっくりした体重移動が理想。ちょっと遅れて泳いでも、バットが出せそうな感じです」

 

 7月20日まで打率4割をキープし、今では3番打者として6本塁打、19打点と最下位のチームにあってひとり気を吐いています。悩めるプリンスからの脱却に一番喜んでいるのは、ブレイクを見ずに亡くなった衣笠さんかもしれません。


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