皆様お久しぶりです。白寿の岸川です。前回のコラムを書いたのは新型コロナウイルスの感染者数も減り、緊急事態宣言が解除された頃でした。そこから2カ月が経ち、経済が回りだした今、再び感染者数が増えてきました。この先もひとり一人の危機管理が必要になりますが、相手は目に見えないだけに自分自身が出来る予防を行うことで感染拡大を抑えたいものです。


 前回、巨人の1軍打撃投手を任されたときのことを書きましたが、今回はその後編です。打撃投手で経験した技術だけではどうにもならない、心の準備やどう選手と向き合うことが必要なのかをお伝えしましょう。

 

 私達打撃投手は試合前に行われる打撃練習で1グループ4人の打者を担当します。オープン戦時、私の担当は『高橋由伸、二岡智宏、阿部慎之助』などでした。これはこれですごいメンバーです。

 

 そしてオープン戦期間が終わり、あと3日で開幕という選手たちが一番ピリピリしてくる時期に私自身もビリビリくる出来事が起きました。練習のために東京ドームを訪れると、打撃練習の順番がホワイトボードに貼ってありました。私の担当するメンバーが『清原和博、タフィ・ローズ、ロベルト・ペタジーニ、江藤智』という超豪華メンバー。「えっ、4人の年俸合わせたらいくらなの?」とまで考え、私はビビリまくりでした。

 

 1軍で初めてのシーズンにこのメンバーとは……。ここからの私は毎日プレッシャーで押しつぶされそうになりました。投げる時間は20分程度ですが、とても長く感じ、投球で流す汗と緊張からくる汗が混じり私のユニフォームはいつもビショビショ。最初の1カ月で精神的にも参ってしまい、私の体重はみるみる落ちていきました。とにかくこのメンバー、気を遣うのです。

 

 そんな中、甲子園で行われた阪神戦である出来事が起きました。阪神の先発投手は当時の左のエース井川慶投手。清原選手の打撃練習で私が投げたのですがストライクゾーンに球がいきません。他の選手にはストライクが入りますが、清原選手にだけは明らかなボールではないのですがゾーンに球がいかなかったのです。当然、私は焦りました。焦るとそれがボールの回転に伝わり、ますますストライクゾーンから外れていってしまうのです。投げる時間は限られている中で、入ったストライクは数える程度で、その日はさすがに私自身も落ち込みました。そしてその日の試合では、「清原選手にヒットが出ますように」と祈るばかりでした。

 

 そして試合が始まり、私はホテルの部屋で試合観戦。その日の清原選手は4三振でした。私の顔はみるみる青ざめて行き、そして次の日から私は担当から外されたのです。

 

 その後、清原選手には他の打撃投手が投げることになりますが、私よりも年下でしかも打撃投手歴1年目の後輩は、私以上に緊張して投げていたのがよくわかりました。そんな後輩を見て、申し訳ない気持ちでいっぱいになったものです。

 

 それから数日が経ち、清原選手から「俺に投げるのは緊張するか?」と声をかけられました。私が正直に「はい」と答えると、清原選手は「もしそうだとしても、命まで取られることはないだろ! そんな堅苦しく考えるな」と助言してくれたのです。

 

 私はその言葉を聞いて、肩の荷が下りたというか救われました。

 

 清原選手と言えば私にとって学年が2つ上で、高校時代(PL学園・大阪)からKKコンビとして騒がれていた誰もが憧れた選手です。そんな人に投げるともなれば、良いボールを投げなければいけないと必要以上に気を使い過ぎていたのでしょう。清原選手の言葉を聞いて、私は誰が相手でも、自分のすべきことに集中するよう心掛けることから始めました。

 

 その後、10日程でまた主力メンバーの打撃投手として戻り、すぐにとはいきませんでしたが良い緊張感の中で腕を振れるようになりました。2005年シーズン終了まで清原選手の打撃投手を担当させてもらいました。

 

 その後、外国人選手やFAで来た選手を担当しましたが、あれ程緊張して投げたのは清原選手の他にはいません。というか清原選手に投げさせてもらったことで、メンタルがかなり鍛えられましたね。04年には2000本安打を達成し、そのオフに清原選手が私達裏方15名程を温泉旅行に招待してくださいました。そして感謝の言葉を述べたとき、私も目頭が熱くなりました。数名の選手と裏方で清原選手を囲み楽しい時間を過ごしたのは今も良い思い出です。

 

 その後清原選手は06年にオリックスに移籍し、晩年は満身創痍の中、ヒザなどのケガに苦しみ2008年に惜しまれながら現役を引退されました。

 

 さて、この度、清原さんは執行猶予期間を終え、社会復帰されました。ここからまたメディアや野球の現場でのご活躍を祈念いたします。いつの日かまたご挨拶できることを楽しみにしていますが、そのときにはまた緊張して汗が止まらない自分が想像できます。

 

 次回はまた違う選手のエピソードを書いてみようと思っていますので、お楽しみに!

 

<岸川登俊(きしかわ・たかとし)プロフィール>
1970年1月30日、東京都生まれ。安田学園高(東京)から東京ガスを経て、95年、ドラフト6位で千葉ロッテに入団。新人ながら30試合に登板するなどサウスポーのセットアッパーとして期待されるも結果を残せず、中日(98~99年)、オリックス(00~01年)とトレードで渡り歩き、01年オフに戦力外通告を受け、現役を引退した。引退後は打撃投手として巨人に入団。以後、17年まで巨人に在籍し、小久保裕紀、高橋由伸、村田修一、阿部慎之助らの練習パートナーを長く務めた。17年秋、定年退職により退団。18年10月、白寿生科学研究所へ入社し、現職は管理本部総務部人材開拓課所属。プロ野球選手をはじめ多くの元アスリートのセカンドキャリアや体育会系学生の就職活動を支援する。


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