チャリティーと言っておきながら、結局はカネか。

 

 

 9月12日に予定されていたボクシングの元世界統一ヘビー級王者マイク・タイソン対4階級制覇王者ロイ・ジョーンズJrのエキシビションマッチは、ペイパービュー視聴の収益増を理由に11月28日に延期となった。

 

 12オンスのグラブを使用するとはいえ、ヘッドギアは装着しない。タイソンはリングを去ってから15年も経つ。年齢は54歳。期待よりも不安の方が大きい。

 

 タイソンは“最大瞬間風速のボクサー”というのが私の持論である。輝いていたのはデビューから4年間くらい。90年2月、東京でジェームス・バスター・ダグラスに叩きのめされてからは、並のボクサーに成り果ててしまった。全盛期は短かった。

 

 だが、デビューから破竹の勢いで勝ち進み、WBC、WBA、IBFの王座を統一し、防衛を重ねている頃のタイソンは、文字通り無敵だった。

 

 タイソンは、自らの工夫と努力で独特のスタイルをつくり上げたわけではない。いわゆる「つくられたボクサー」である。ファイティング・マシーンそのものだった。

 

 製造者はイタリア系移民のカス・ダマト。自らが発明したピーカブー(のぞき見)・スタイルは、相手のパンチを一発も受けないという理想の結実であり、攻撃に移れば、人間の急所とされる肝臓、左の肋骨、耳下のアゴ骨を徹底して狙わせた。

 

 全盛期、タイソンの動きは軽量級ボクサーのように速かった。ダッキングして相手の内懐に潜り込み、数発のコンビネーションブローで手早く仕事を片付けた。

 

 コーナーから指示を出し続けたのがトレーナーのケビン・ルーニーである。コンビネーションを「5-3-2」と言った具合に暗号化した。その意味でタイソンが「鉄人28号」なら、ルーニーは正太郎の役割を担っていた。

 

 ところがダマト、ダマトの盟友ジム・ジェイコブスが相次いで他界、トレーナーのルーニーを追い出したあたりからタイソンの転落は始まる。

 

 ダマトが信頼していたビル・ケイトンからマネジメント権を剥奪したドン・キングにとって、タイソンはイソップ童話に出てくる「金の卵を産むガチョウ」に過ぎなかった。ダマトと違ってタイソンを機能させるチームをつくることはできなかった。

 

 それでも試合のたびに“最大瞬間風速”を記録していた頃のタイソンを懐かしむ声は少なくない。80年代のタイソンは、本物の“鉄人”だった。

 

<この原稿は『週刊漫画ゴラク』2020年10月23日号に掲載されたものです>

 


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