エリートVS雑草――。いささか手垢のついたキャッチコピーだが、往時は、それなりに刺激的で訴求力もあった。

 

 さる11月17日、食道ガンのため71歳で世を去った元WBC世界ジュニアフェザー(現スーパーバンタム)級王者・ロイヤル小林(本名・小林和男)は学士ボクサーであることに加え、五輪(1972年ミュンヘン大会)出場経験があることから、その野武士のような風貌とは裏腹に斯界では、とびっきりのエリートと見なされていた。

 

 遡れば、無敗のまま引退した田辺清に代わり「五輪メダル&学士世界王者第一号」の期待がかけられたのは、64年東京五輪金メダリストの桜井孝雄である。68年7月、ライオネル・ローズ(豪州)の持つ世界バンタム級王座に挑戦し善戦するも、あと一歩及ばなかった。「学士ボクサーは世界王者にはなれない」。そのジンクスを打ち破ったのが、小林だった。76年10月、2度目の世界挑戦でリゴベルト・リアスコ(パナマ)を倒し、悲願を達成した。

 

 しかし、その1カ月後に韓国の廉東均に敗れ、王座陥落。4度目の世界戦となったウイルフレド・ゴメス(プエルトリコ)には全く歯が立たなかった。それでも黄福寿(韓国)に勝ち、東洋太平洋フェザー級のタイトルを奪取。再起の目途が立ち、78年8月、“次期世界王座挑戦者決定戦”の相手に同級日本王者のスパイダー根本(本名・根本重光)を迎える。

 

 ロイヤル対スパイダー。直訳すれば「王室」VS「クモ」である。身長155センチ。低い姿勢から地を這うようにして相手の懐に侵入する根本のボクシングスタイルは、“毒グモ”と形容された。

 

 試合は一進一退で最終ラウンドへ。根本が小林をロープに詰めようとした、その瞬間だ。いきなりレフェリーが割って入り、プッシングの反則をとったのだ。「あれで、オレの人生が狂った」。根本はうめくように言い、続けた。「判定は2対1で小林。あの反則での減点1がなかったらドロー。オレはレフェリーが許せなかった」。判定に納得のいかない根本は試合後、控室で小林に詰め寄り、「オレのような雑草もKOできずに、もう1回世界王者になれるか!」と息巻いた。小林はうつむいたまま、一言も発しなかったという。

 

「彼の死は報道で知った。あの試合以降、一度も話したことはない。いろいろな意味で残念です」。恩讐は消えたのか……。

 

<この原稿は20年12月16日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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