第128回 東京パラリンピック、中止に伴う損失?
このところテレビや新聞など多くのメディアで東京オリンピック・パラリンピック(以下、オリパラ)開催の是非が大きな話題となり、「開催すべき」「中止か延期だ」と議論が起きています。こうした中、最近、よく聞かれます。「パラリンピックが万が一中止になったときの損失はどれくらいなんでしょうか?」と。
何度もそう聞かれているうちに、大事なことに気づきました。
もちろん開催中止となれば、出場予定選手やその周囲の方々、大会関係者、スポンサー、観客など、各方面に計り知れない大きな損失があることが想像できます。しかし、損失ばかりに目が行ってしまう傾向に私は違和感を覚えたのです。
2013年に東京でのオリパラ開催が決定してから、「障がいのある人がスポーツをする」ことへの理解は劇的に変化しました。
「障害のある人は、我々と別の世界にある」というかつての感覚は、パラスポーツを知り、見ることによって徐々に変わりました。それまではパラスポーツ(という言葉もありませんでしたが)は、自分たちとは別の場所にいる障害のある人たちのための特別なもの、たとえばリハビリの一環として捉えていたことでしょう。しかし、それが「スポーツ」であると認識が変わっていったのです。すなわち日常のレジャー、趣味や楽しみとしてのスポーツがあり、パラリンピアンなどのトップアスリートがいる。これは障害がない人のスポーツと同じだ、と。
また、パラスポーツの管轄省庁はこの8年間の間に厚生労働省、文部科学省、スポーツ庁と遷移してきました。
まさに隔世の感があります。だからこそ、8年間で積み重ねられた価値に目を向けず、損失にばかり注目するのは、あまりにももったいないことだと考えるのです。
オリンピック・パラリンピックが世界最高峰の競技大会であり平和の祭典であるというだけでなく、社会変革活動であるという側面から見ると、すでに東京パラは確実に大きく社会を変革し、そして今、私たちはその道半ばにいます。
万が一パラリンピックが中止となると、史上初の出来事になります。世界で初めての経験を活かしたさらなる社会変革活動へと昇華させるチャンスと捉えることもできます。
極論すると、パラリンピック本大会という13日間のイベントがあろうがなかろうが、この8年間に積み上げてきたことの価値が揺らぐことはありません。8年間の財産は尊大です。繰り返しになりますが、パラリンピックが開催されてもされなくても、今日からまた社会変革を継続していくこと。そして、開催後にこそ「東京パラリンピック」の真価が問われていることに変わりはありません。
<伊藤数子(いとう・かずこ)プロフィール>