先日、久しぶりに電動車いすサッカーチーム・金沢ベストブラザーズの練習を見学してきました。新型コロナウイルスの感染拡大の影響により、これが約3カ月ぶりの練習です。練習中断期間には、運動ができなくなり廃用症候群で体が動かなくなった選手もいたと聞きました。


 練習に参加したのは選手5名に監督、コーチ、審判、アシスタント、見学者を含めて13名。電動車いすは個人所有とチーム所有を合わせ10台あり、マイマシンを持てない人や初心者にも貸し出しています。

 

 同チームの監督は城下歩さん。弱冠28歳の熱血漢。その上、理論派でもあります。監督の熱い思いのこもった(少々長めの・笑)ミーティングの後、いよいよ練習が始まりました。コートの中には笑顔が並び、練習ができる喜びに満ち溢れていました。

 

 ボーン、キュキュッとコートに響く音を聞きながら、「ワッ、は、速い! (前とは動きが)違う」と思わず口に出していました。私がこの競技を最後に見たのはいつだったのだろう、と考えていると城下監督が「そやろ」と声をかけてきました。「何が違うんですか?」と問うと、「テクニックや」とニヤリ。詳しく聞いてみると、マシンもレギュレーションも変わったことで、競技全体の技術レベルが上っているそうです。

 

 練習に参加している選手に、この夏行われたパラリンピックについて聞いてみました。するとこういう答えが返ってきました。

 

「テレビや新聞ですごくたくさん、たっぷりと見ることができた。家族、そして会社でも話題になり、大いに盛り上がって嬉しかった。でも、パラリンピックが終わってから報道がなくなり、ぷつっと元に戻った気がする。パッと散って、以前に戻ったような……」

 

 金沢から東京に戻り、他のパラスポーツのチーム関係者にも同じことを聞いてみました。すると以下のような答えが。

 

「パラスポーツの知名度が上がったのはよかった」「期間中は盛り上がったけれど、パッと散った感じ。終わったら報道もないし、話題にならず、消えてしまったのかな。どうやってあの盛り上がりを保てるのかわからない」「盛り上がったつもりだったけれど、振り返ると与えられたものを見ていただけだったかも」

 

 いずれも正鵠を得ています。またこうした感想は主な開催地だった東京でも、東京から離れた地域も同じです。

 

 なぜ、パッと散ってしまった感じがするのでしょう。コロナの影響により移動制限があり、実際に人が動かなかったのが大きいのではないでしょうか。人が動いていればそこには出会いがあり、何かが起こったのではないかと考えました。なぜなら今も大事な仲間である"彼ら"と出会った大会を思い出したからです。

 

 1991年、石川県で国体が開催され、国体の1カ月後には全国身体障害者スポーツ大会「ほほえみの石川大会」がありました。このとき行った、パソコン通信速報サービス(障害のある人たちの手で、大会速報や選手の声をネット配信)の活動が私たちの出会いでした。

 

 約100名のボランティアが1年かけてチームとなり実施。大会後、次から次へと動きが生まれました。「ほほえみの会」を結成し、さらにその中からスポーツも始まり、金沢ベストブラザースや車いすテニスをする会もできました。(参照・第121回・優しい動物園「ほほえみの会」

 

 たらればを言っても仕方がありませんが、開催国であったにも関わらず、コロナ禍により人の動きが制限されたことで、石川大会のときのような出会いから始まったであろうことが起きなかったのかもしれません。そう思うと口惜しいばかりです。

 

 とはいえ、嘆いても何も始まりません。今回、金沢での練習に思い切って参加して本当に良かった。パラリンピック後の虚しい気持ちの一因を発見できたし、それはこれから動くことで取り返せると確信しました。Better late than never! 遅くてもやらないよりは良い! 教えてくれた金沢ベストブラザーズ、ありがとう!

 

 

伊藤数子(いとう・かずこ)プロフィール>

新潟県出身。パラスポーツサイト「挑戦者たち」編集長。NPO法人STAND代表理事。スポーツ庁スポーツ審議会委員。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会顧問。STANDでは国や地域、年齢、性別、障がい、職業の区別なく、誰もが皆明るく豊かに暮らす社会を実現するための「ユニバーサルコミュニケーション事業」を行なっている。その一環としてパラスポーツ事業を展開。2010年3月よりパラスポーツサイト「挑戦者たち」を開設。また、全国各地でパラスポーツ体験会を開催。2015年には「ボランティアアカデミー」を開講した。著書には『ようこそ! 障害者スポーツへ~パラリンピックを目指すアスリートたち~』(廣済堂出版)がある。

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