2004年春、旭化成に入社した久保田満には、ふたつの目標があった。ひとつは在籍中に「憧れだった」というマラソン挑戦。もうひとつは引退後、指導者の道に進むことだった。

 

 日本を代表する名門チームで、茂と猛の宗兄弟の指導を受けた。兄・茂はオリンピック3大会(1980年モスクワ大会は日本選手団ボイコットのため出場できず)の男子マラソン日本代表、弟・猛は84年ロサンゼルスオリンピック男子マラソン4位入賞を果たした名ランナーとしても知られている。

「いろいろな話をしてくださった。例えば『谷口浩美や森下広一はこういう練習をしていたぞ』と。『オマエが大学で教わっていた川嶋(伸次)はここを毎日走っていたよ』と言われれば、私も毎日そのコースを走るようにしていました」

 

 91年世界陸上競技選手権(世界陸上)東京大会男子マラソン金メダリストの谷口、96年アトランタオリンピック男子マラソン銀メダリストの森下、そして東洋大学時代の恩師である川嶋という憧れの選手たちの名を挙げられ、久保田は発奮した。在籍中の先輩たちも日本を代表する長距離ランナーたちがズラリといたが、“この先輩たちに勝てれば、オレはすごい”とポジティブに捉えた。

 

「練習でもガンガン攻めていくスタンス。猪突猛進という感じでしたね」。学生時代はチームのエースを担った久保田でも思い通りの練習はできなかった。「“今日も勝てなかった。次こそは”。そうやって歯を食いしばりながら日々、先輩たちを目標に頑張っていました」と当時を振り返る。

「サブテン(フルマラソン2時間10分以内)ランナーが10人以上いた。旭化成はそういうチーム。入社してすぐに“マラソンで結果を出さないと、このチームにはいられない”と危機感を覚えましたね」

 

 目標としていた初マラソンは、入社2年目の冬に実現した。2006年2月の延岡西日本マラソン。フルマラソンは走行距離の42.195kmの語呂合わせから、金栗四三が「死に行く覚悟」と言ったとされるほど、過酷なものである。久保田が初めて走ったフルマラソンは苦い記憶として残っている。

「25kmまで先輩の小島宗幸さんがペースメークしていた。30kmまでは先頭集団で走り、そこからの12kmを1人で逃げ切るイメージでした」

 

 しかしペースメーカーが離れ、駆け引きが展開され始める30kmあたりから徐々に失速していく。35km付近で「完全に足が止まってしまった」とトップの背中は遠くなった。「最後は這うくらいのペース。初マラソンの洗礼を受けました」と2時間14分19秒でフィニッシュした。結果は優勝者から4分以上離されての5位だった。

 

 日の丸を懸けた戦い

 

 2度目のマラソンは夏の北海道マラソン。スタート時の気温は30度を超えるという過酷なコンディションの下、久保田は走った。旭化成の先輩である渡辺共則と優勝を争った。2時間17分52秒で競り負けての2位だったが、「渡辺さんとはずっと一緒に練習をやってきた。苦しい練習を乗り越えてきた仲間。先輩とのワンツーフィニッシュは最高の幸せでしたね」と語る。渡辺は前回大会に続き2連覇を達成。お世話になった先輩との優勝争いは、自身の成長を実感するものだった。

 

 そして3度目のマラソンとなったのが07年3月のびわ湖毎日マラソンだ。レース中、この時期には珍しく気温20度を超える暑さに見舞われた。世界陸上競技選手権(世界陸上)大阪大会の選考会を兼ねた大会は完走率6割を切るサバイバルレース。久保田は一度先頭集団から離されたが、粘りの走りを見せた。2時間12分50秒という自己ベストをマーク。世界陸上日本代表内定条件の2時間9分29秒は切れなかったものの、日本人トップの6位に入った。

 

 レース後、久保田は記者たちの前で「僕をぜひ選んでください」とアピールしたという。

「ノートにペンを走らせていた記者の方たちがリアクションを取ってくれたので、少しは響いているんだと感じました」

 世界陸上の日本代表争いの椅子は5つ。内定条件をクリアしていたのは、福岡国際マラソンで2時間8分49秒の日本人トップ(4位)でゴールした奥谷亘(SUBARU)のみだった。

 

 残りの4席は、久保田が出場した北海道マラソン、びわ湖毎日マラソンに加え、06年のアジア競技大会(カタール・ドーハ)、別府大分マラソン、東京マラソンの結果を踏まえ、日本陸上競技連盟に判断される。アジア競技大会銅メダリストの大崎悟史(NTT西日本)と、同大会に出場した諏訪利成(日清食品)、前回の世界陸上ヘルシンキ大会で銅メダル獲得の尾方剛(中国電力)が代表有力とされていた。久保田は実質最後の1席を旭化成の先輩・佐藤智之と争うこととなった。

 

 びわ湖毎日マラソンから約1週間後、久保田に代表入りの報が届いた。

「入社当初、チームメイトの半分以上が日の丸を経験した選手だった。その時までは自分が日本代表になれる確率は50%だと。だから“やっと日本代表になれた”と思いました」

 初めて背負う日の丸。久保田はその重みを日々実感しながら、大阪での戦いに向け、トレーニングを積んだ。

 

 世界陸上、“意地の完走”

 

 8月、世界陸上本番。長居陸上競技場を発着点にする42.195kmの旅路は、久保田にとって、つらく厳しいものとなった。「情けなさと悔しさでいっぱいだった」。序盤から先頭集団に遅れをとり、優勝争いはもちろん、日本人トップ、入賞圏内からもほど遠い位置で走った。

「スタートが午前7時と朝早かったので、朝食を摂る時間や内容を失敗しました。あとは暑さを意識し過ぎて水分も摂り過ぎてしまい、スタート前から全然戦える状態じゃなかった」

 

 結局、自身4度目のマラソンは2時間59分40秒という自己ワーストのタイムでフィニッシュした。完走者の中では下から2番目の56位。制限時間にも間に合わずフィニッシュ地点を、サブトラックの第二陸上競技場に変えられるという屈辱を味わった。当時を振り返り、久保田はこう語る。

「私はレースを途中でリタイアしたことがなかったのですが、お腹も痛く、限界だった。しかし、沿道には日本代表選手を応援する人たちで溢れている。“もう走り切るしかない”という状況でした」

 

 途中棄権という選択肢はなかったのか。

「現役選手としては棄権すべきだったと思います。レース中にある実業団チームの監督さんが『オマエ、若くて将来があるんだから、辞めておかないとダメージ残るぞ』と声を掛けてくださった。ただ久保田満としては、走り切る信念、意地があった。個人的には辞めなくて正解だと思っています」

 とはいえ日の丸を背負った重圧、酷暑のレースを走り切った疲労。心身共に負ったダメージは相当なものだった。このレース以降、久保田が自己ベストを更新することはなかった。世界陸上での“意地の完走”は高い代償となったのだ。

 

“選手・久保田”としての判断を、“指導者・久保田”はどう見ているのかを聞いた。

「教え子の選手生命を考慮し、止めると思います。ただ止まるように声掛けは必ずしますが、無理矢理には辞めさせません。本人の意思でやめるのを待ちます。私も自分の意思で走り続けましたし、ビリでゴールすることよりも、途中で辞めてしまうことの方が悔しいからです。マラソン出場に向け、3カ月前から苦しい練習をしています。その間に積み上げてきた思いや努力、指導してくれたスタッフと皆からの応援や期待を、簡単には捨てられませんでした」

 

 10年3月、ヒザのケガにも悩まされていた久保田は現役生活に別れを告げ、ふたつ目の目標である指導者の道に進む。この年の秋、旭化成からの出向というかたちで創価大学陸上競技部駅伝部のコーチに就いた。当時の創価大は東京箱根間往復大学駅伝競走本選に出場したことのないチームだったが、「初めて練習を見た時、彼らの設定タイムは決してレベルが低いものではなかった。そして選手たちの走りは、“なんで今まで予選落ちしていたの?”というものでした」と、大いに可能性を感じた。“指導者・久保田満”に託された最初のミッションはチームを変えることだった――。

 

(最終回につづく)

>>第1回はこちら

>>第2回はこちら

 

久保田満(くぼた・みつる)プロフィール>

1981年9月30日、高知県中村市(現・四万十市)出身。中学から陸上競技を始める。中村中では高新中学駅伝競走大会に3大会連続出場。2年時からの2連覇、全国大会出場に貢献した。高知工業高校入学後は、全国高等学校駅伝競走大会に1年時から出場。3年時にはエースとなり、陸上部のキャプテンを任された。東洋大学では3年時に駅伝主将に抜擢され、東京箱根間往復大学駅伝競走に2度出場。2年連続シード権獲得に貢献した。卒業後は実業団の名門・旭化成に入社。2年目に初マラソンを経験し、07年にはびわ湖毎日マラソンで日本人トップの6位に入り、世界陸上競技選手権の代表に選出された。10年3月に現役引退。同年10月、旭化成からの出向というかたちで創価大学駅伝部コーチに就任した。14年から同大駅伝部の専任コーチとなり、現在に至る。

 

(文/杉浦泰介、写真/本人提供)

 

shikoku_kouchi[1]


◎バックナンバーはこちらから