ストロング小林、サンダー杉山、グレート草津、ラッシャー木村、アニマル浜口、マイティ井上……。以上の名前を目にして、ある団体名が浮かんだ人は、作家の村松友視さん風に言えば、それなりの“プロレス者”である。答えは「国際プロレス」に所属したレスラーたちだ。

 

 余談だが、ボクシングの「国際ジム」も所属選手のリングネームには必ず横文字が入っていた。輩出した3人の世界王者の名前はロイヤル小林、レパード玉熊、セレス小林。4年前に他界した高橋美徳会長に横文字の理由を聞くと、「ウチは国際ジムですから。それに、その方がプロボクシングっぽいでしょう」と語っていた。

 

 閑話休題。国際プロレスに7年間所属し、IWA世界ヘビー級王座を25回も防衛したストロング小林(本名・小林省三)さんが昨年の大みそかに亡くなっていたことがわかった。81歳だった。

 

 生前、「最も印象に残る試合は?」と聞いたところ、横浜でのキング・イヤウケアとの金網デスマッチをあげた。「あまりの人気で切符が足りなくなり、どこかから持ってきた映画の半券を代用したんだ。こんなこと後にも先にもなかったね」

 

 国際プロレスのエースとはいえ、新日本プロレスを率いるアントニオ猪木さん、全日本プロレス総帥のジャイアント馬場さんに比べ、地名度で劣る小林さんは2人に挑戦状を叩き付ける。そこで実現したのが“昭和の巌流島”と呼ばれる猪木さんとの一騎打ちだ。1974年3月19日のことである。

 

 試合はカール・ゴッチ直伝のジャーマン・スープレックスホールドで3カウントを奪った猪木さんに軍配が上がったが、小林さんの奮闘ぶりも称えられた。映画なら、さしずめ助演男優賞だった。

 

 この勝利で“実力日本一”の称号を手に入れた猪木さん率いる新日本は一気に上昇気流に乗るのだが、小林さんによると「僕が新日本に入団してから、地方の客が増えた」というのである。「特に東北地方がそうだった。弱小と言われた国際だけど、東北では新日本より客が入ったんだ。東北も含め地方のプロモーターから“小林さんが(新日本に)来てくれて、やっと儲かり始めたよ”と言われた時にはうれしかったね」

 

 第一線を退いたのを機に小林さんは青梅市の自宅で取材を受けるようになった。昔話には味があった。新日本プロレスは明日1月13日に会社創立50周年を迎える。礎を築いた功労者のひとりが小林さんである。ご冥福をお祈りします。

 

<この原稿は22年1月12日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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