「Sportful Talks」は、ブルータグ株式会社と株式会社スポーツコミュニケーションズとの共同企画です。多方面からゲストを招き、ブルータグの今矢賢一代表取締役社長、二宮清純との語らいを通じ、スポーツの新しい可能性、未来を展望します。

 

 今回のゲストは、バレーボール元女子日本代表で1984年ロサンゼルス五輪銅メダリストの三屋裕子氏です。現在は日本バスケットボール協会会長を務める三屋氏にバスケ界の将来について聞きました。

 

今矢賢一: バレーボール日本代表として活躍された三屋さんですが、日本バスケットボール協会に携わるようになったきっかけは?

三屋裕子: スポーツ界での理事としてのキャリアは、1998年のJリーグ理事就任が最初でした。この時は川淵三郎さん(日本トップリーグ連携機構会長)から「三屋さんはサッカーを知ってる? Jリーグで何かやってみない?」と声を掛けていただきました。そのご縁で、川淵さんが日本バスケットボール協会の会長を引き受ける際には、「副会長をやらないか」と誘っていただいたんです。

 

二宮清純: 2016年に、川淵さんの後を受け、会長に就任しました。しかし20年以降はコロナ禍でスポーツ界が大打撃を受けています。バスケもトップリーグのB.LEAGUE、Wリーグでもコロナ禍で一部試合の中止やシーズンの途中終了を余儀なくされました。

三屋: どれが正解かはわからない状況ですが、その時々で最適解を求めていくのは難しい。コロナは目に見えないものですし、新たな変異種も次々と出てくる。なかなか先手が打てない状況でもどかしさを感じています。少しでもいい方向を向けるように頑張ってはいますが……。

 

二宮: サッカーのJリーグ、プロ野球のNPBは新型コロナウイルス対策連絡会議を立ち上げました。そのような競技間のヨコ連携はバスケにもあるのでしょうか?

三屋: 今年3月までJリーグ・チェアマンを務められた村井満さんからは「こちらで分かったことがあれば情報を共有しましょう」と言っていただきましたし、NPB斉藤淳コミッショナーとも連絡を取っています。もちろん屋内スポーツと屋外スポーツでは違いますが、いつでも情報を交換できるようにはしています。独自のガイドラインを策定し、毎回バージョンアップさせなければいけない。対応策を常に練っていかなければいけないと思っています。

 

今矢: 昨年夏の東京五輪で女子日本代表がオリンピック初の銀メダルを獲得するなど、バスケは日本選手団のメダルラッシュに貢献しました。オリンピック効果はありましたか?

三屋: ありがたいことに女子の人気は高まりました。「女子バスケを観たい」という声をいただきましたし、Wリーグプレーオフは過去最多の観客動員を記録しました。その意味でもオリンピック効果は大きかったです。

 

 ワクワクするバスケ

 

二宮: 女子は出場国・地域中2番目に小さい平均身長でしたが、アジリティを生かしたプレーとスリーポイントで銀メダルを獲りました。

三屋: 選手たちは「身長が小さい選手たちの励みにもなればいい」と言っています。体が小さくてもできるプレーがある。その可能性を示してくれたと思います。

 

二宮: 女子バスケの人気でWリーグのプロ化も見えてきますか?

三屋: ホーム&アウェイで開催していくことを考えると、現在は愛知県にチームが固まっている。地域の偏りがあり、プロ化を考えると難しい面があります。入場料収入を中心にクラブ経営をする場合、このコロナ禍では赤字になってしまう。観客数は3000人から5000人コンスタントに呼べないと、経営を持続していくのは難しい。プロ化した方がアンダーカテゴリーのチームを保持したり、地域貢献が見えてくる。それと経営とのバランスがきちんと保てるかがカギになってくると思います。リーグを支えてくださっている企業も多くありますので、プロ化という点については、慎重に協議していきたいですね。

 

今矢: 東京五輪の活躍で、ポイントガードの町田瑠唯選手がアメリカのWNBAに移籍しました。トム・ホーバスHCの下、新しい戦い方、魅力を世界に示したような気がしますね。

三屋: そうですね。よく言われたのが「日本とやった後は足が疲れて、次の試合で負けることが多い」ということです。それくらい最初から最後まで走り続けていた。「小さくても戦える」ための戦い方だったと思います。

 

二宮: オリンピック後、日本代表は男女ともに指揮官が変わりました。男子は女子のHCだったトム・ホーバスさんに代わり、女子はアシスタントコーチだった恩塚亨さんが昇格しました。

三屋: 男子の前HCフリオ・ラマスは代表のサイズアップを求めた選考でしたが、トムは「日本人は速い方がいい」と小さくても速くて巧い選手を評価しています。女子のバスケ同様に日本には小さくても速くて巧い選手がたくさんいる。トムのバスケが男子にもマッチするんじゃないかと思ったんです。

 

二宮: ラグビー日本代表の前HCエディー・ジョーンズさんをはじめ、日本のことを熟知している外国人指揮官は成功する印象がありますね。

三屋: そうですね。トムは現役時代、日本の実業団でプレーし、指導者としてはWリーグのチーム(ENEOSサンフラワーズ)でコーチも務めた。そのキャリアは大いに生きていると思います。今回の女子代表を観ていても、通訳が入らないことで真意が伝わりやすいことは大きいですね。

 

二宮: 日本語で常に選手たちを鼓舞する姿が印象的でした。大声ではあっても言葉遣いも丁寧ですし、一昔前のスパルタ式指導とも違うように感じます。

三屋: 私の現役時代はスパルタ指導がある意味主流でしたが、今はそれを肯定する気はありません。日本バスケットボール協会は暴力、暴言を撲滅するため「クリーンバスケット、クリーン・ザ・ゲーム~暴力暴言根絶~」を掲げ、主催する全大会で横断幕を掲出していただいています。インテグリティ委員会というものを立ち上げ、通報窓口を設けました。たしかに私たちの時代は厳しい指導を受けてきました。その経験を持った者として、絶対暴力はいけないと考えます。なぜかというと、殴られないように、怒られないような努力をしてしまう。それでは目的が変わってくる。文化としてスポーツを広めていくためにも、暴力、暴言は絶対に排除すべきことだと思っています。

 

 回り道でもいい

 

今矢: 個人的には暴力、暴言を容認してしまっていることがスポーツの価値を下げてしまっている要因だと思います。

三屋: おっしゃる通りです。女子のHC恩塚の目指すスタイルは「ワクワクするバスケット」と言います。みんながやりたいバスケを突き詰めていくことがワクワクする。できないことができるのはワクワクする。そのためには何をすべきか。それが彼の教え方なんです。選手1人1人の判断を求め、HCはポジティブな声掛けをする。決して言葉で脅かさない。トップチームが楽しんで世界に勝っていけば、アンダーカテゴリーも続いていく。日本のバスケが変わる。それが恩塚の考え方で、私も共感しています。

 

二宮: 三屋さんはスポーツ界の女性リーダーの先駆けです。

三屋: 私たちの頃は女性の“寿退社”は当たり前でした。キャリアを形成する環境になかった。今の人たちは選択できる。私が思うのは“何でも欲しがらない”ということが大事。あれもしたい、これもしたいではそれぞれが中途半端になる。

 

二宮: その時々のことに集中すると?

三屋: ある時は仕事に向き合い、ある時は育児に向き合う。回り道のように思えるかもしれませんが、大事なことのような気がします。私は大学進学を決めた時、周りから「オリンピック行かないの?」と止められたんです。大学へ行くことがオリンピックを目指す上では「回り道」だと言うんです。大学進学の選択は簡単ではありませんでしたし、大変なこともありましたが、私は自らの選択が正しかったと思っています。

 

今矢: 東京五輪で女子代表の銀メダル獲得に沸きましたが、パラリンピックでは車いすバスケ男子代表が銀メダルを獲得しました。パラスポーツとの連携はどうですか?

三屋: 2020年8月に「バスケットボールで日本を元気に」の理念の下、『BASKETBALL ACTION 2020 SHOWCASE』というイベントを開催しました。車いすバスケットの方にもきていただきましたし、3x3(3人制)、男女バスケが一緒になり、オールバスケットボール体制でした。例えば強化においても、私たちの人間が車いすバスケを手伝うこともあります。双方の協会にそれぞれ理事を務めている。私たちもそれぞれの競技から得るものがありますし、これからも車いす、3x3とオールバスケット体制で盛り上げていきたいと思っています。

 

今矢: オリンピック・パラリンピックでは難民選手団が組まれています。リオデジャネイロ、東京の2大会で難民選手団としてパラリンピックに出場(パラ水泳)したシリア出身のイブラヒム・アル・フセイン選手は今、ギリシャで車いすバスケをやりながら、チームスポーツで難民選手団として国際大会に出られるような活動をしています。ブルータグでは6月20日の「難民の日」に合わせて再来日できるようなプロジェクトを進めています。

三屋: 同じバスケファミリーの仲間ですし、ご協力できることがあれば、ぜひお手伝いさせてください。

二宮: 車いすバスケとの連携がさらに深まればいいですね。

 

三屋裕子(みつや・ゆうこ)プロフィール>

1958年、福井県生まれ。小学3年生でバレーボールを始める。勝山中、八王子実践高、筑波大を経て81年に日立に入社。日立、全日本代表の主力として活躍し、83年のアジア選手権優勝、84年ロサンゼルス五輪の銅メダル獲得に貢献した。現役引退後、國學院高の教員を経て、学習院大助手、講師に。同大バレー部の指導をする傍ら、全日本ジュニアチームのコーチを務めた。92年、筑波大大学院に進学。その後、筑波スポーツ科学研究所副所長に就任した。Jリーグ理事、日本バレーボール協会理事を経て、15年、日本バスケットボール協会副会長に就任。現在は日本バスケットボール協会会長、国際バスケットボール連盟理事を務める。また、2004年以降、上場企業・銀行等で社長、社外取締役を歴任する。

 

(鼎談写真・構成/杉浦泰介、プロフィール写真/ⓒJBA)


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